『GODZILLA 怪獣惑星』(2017)
『GODZILLA 決戦起動増殖都市』(2018)
『GODZILLA 星を喰う者』(2018)
監督/静野孔文・瀬下寛之
#映画 #アニメ
作業しながら鑑賞。この手のお話は必ず科学者ポジションの人が好きになるんだけど、もれなくマーティン少佐が好きでした。
これは『シン・ウルトラマン』を観た時にも似たような感情を抱いたのだけれど、「前地球人類は愚かだから滅んでも仕方ないね」という感想になった。それでいいのか…いや、作品としては徹底して「人類は愚か」でまとまってるし大正解なんだろうけれど、面白いかと言われると微妙。
一作目では、人類の母数が激減して絶滅寸前なのに母なる惑星・地球に固執して僅かな兵力で消耗戦をしかけている主人公に共感がほぼ一切できなかったんだけど、いや百歩譲って共感はともかく応援すらできなかったんだけど、それでいいのか…?
二作目では過酷な環境に独自の適応を遂げた知的生命体が歪ながらも生態系を築きあげているので侵略では…って気持ちが消えなかった。あと作戦の土壇場でカノジョを助けに行ったりと、なんというか…それで…よかったんか? 人間らしさを棄てずに行動したということなんだろうけどそれまでの犠牲や作戦規模を考えると納得いかない…。
あと、異次元宇宙まで巻き込んだ壮大な世界設定のわりに、実質富士山周辺だけが舞台になっていて、世界の広さをあんまり感じなかったなと思いました。他民族・他星人との価値観の差も誤差みたいなもんだったし。これは『大雪海のカイナ』にもほとんど同じ感想を抱いたので、ポリゴン・ピクチュアズ作品の癖みたいなものかもしれない。
お話以外の点では、キャラクター造形や動作をいまいち好きになれなかったなあ…。ローニャのときはだいぶデフォルメされていたら違和感なく観られたんだけど。ゴジラの造形や爆発シーンはかっこよかったです。
昨日からずっとひきずっているのでもうちょっと書く。なんか主人公以外の登場人物が全員可哀想だったな…って…。
みんな、主人公のゴジラへの憎しみ(我儘?癇癪?)に付き合わされて死んでいった。しかも「後輩キャラ」「軍人キャラ」「博士キャラ」みたいな定型的な人格描写だけでそれぞれの個性が描かれることもなく、ハルオとメトフィエスの物語を描くためだけに存在していた感じがして、すごく可哀想だった。そこに愛はあるんか。
特に女性描写。制作側は新たな客層(女性、こども)を取り込むことを意識していたっぽいんだけれど、にしてはユウコとフツア族の双子の扱いがひどすぎる。誰かあの展開のマズさを気に掛ける人間はいなかったのか。何故あれでOKになったのか経緯が知りたい。ハルオとメトフィエスの関係性が声優も相まって凄く女性受けしそうだなとは思っていたが、それを凌駕する酷さだったので。
終盤、お話が急展開して怪獣とは…文明とは…みたいな話になっていったけど、それがやりたかったんなら中途半端に人間ドラマを描かずいっそばっさり切り捨てればよかったとおもう。恋愛要素がなければもうちょっと見られた気がする。