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我々は常に観念と行動を分離して考えるが、これは観念が常に過去のものであり、行動が常に現在のものであるからだ。つまり、生きることは常に現在であるからだ。我々は生きることに恐れを抱いており、それ故、観念としての過去は我々にとって重要なものになってくるのだ。

思考は新しい事実を見出すことができない。新しい事実は後になってから思考によって言葉の上では理解されるが、その理解は思考にとって現実ではない。

すべての事柄を、言葉や理知の上ではなく、ありのままに観察することによって、心身は非常に鋭敏になる。

私たち個人の中に根本的革命を引き起こすためには、私たちと他のものとの関係の中で、私の思考や感情の動きの全体を理解しなければならないのです。これが、私たちのすべての問題に対する唯一の回答なのです。

注意力とは明澄さであり、あらゆる思考をはさまない澄んだ直覚に他ならない。思考は常に死んだ過去に根ざしているから、決してそのような明澄さをもたらすことはできない。それゆえ思考は無明の闇の中の行為なのである。そしてこのことに気づくことが注意力の働きである。

愛と美を分かつことはできない。愛がなければ何の美もなく、両者は不可分に結び合っているのです。

話し手は皆さんを感化し、導き、手助けしようとしているのではありません。何らそういう事をしようとしているのではないのです。一緒に、多分手に手を取って、ある非常に微妙で、複雑な道をたどりつつあるのです。

われわれの社会自体の道徳は実際には不道徳に他ならず、それゆえ社会も無秩序なのである。

私たちはこうありたいと思っている自分ではなく、あるがままの自分を知らなければいけません。こうありたいと思っている自分とは、単なる理想であり、架空の非現実なものなのです。変革することができるのは、あるがままのものだけであり、こうありたいと望んでいるものではないのです。

選択する人間は混乱しているのです。混乱しているからこそ、選択するのです。もしその人が混乱していなければ、選択する余地はない訳です。混乱している人だけが、なすべき事や、なしてはならない事を選択するのです。明晰で素朴な人間は選択しません。ただあるがままのものがそこにあるだけなのです

思考は新しい事実を見出すことができない。新しい事実は後になってから思考によって言葉の上では理解されるが、その理解は思考にとって現実ではない。

瞑想とは精神を既知なるものから空しくすることである。既知なるものとは、すなわち過去である。空しくすることは蓄積の終わりに起こるのではなく、むしろ何ものも蓄積しないことを意味する。

どんな公式にもいかなる導師にも従うことなく、自分自身を理解することが肝要なのである。このたゆみない、選択をはさまぬ自覚によって、あらゆる虚妄と偽善に終止符が打たれるのである。

執着のあるところに愛はなく、依存があるところには恐怖がある。

結局のところ、あなたは何なのですか?あなたは単なる思考にすぎません。あなたは単なる一個の観念なのです。その観念を取り除きなさい。その思考を取り除いてみなさい。

政治家や僧侶、偉人と呼ばれる人々は常に各人の公式に従って行動し、他人をその公式に従って生きるように強制しようとしている。そして思慮のない愚かな人々は常にかれらの言葉や約束、希望によってがんじがらめにされてしまうのである。

私たち各人は、私生活においてもやはり暴力的です。私たちは腹を立てます。私たちは自分を批判する人を好みません。私たちは自分の生き方に口をさしはさまれることには我慢できません。私たちはたいそう防衛的で、だから攻撃的です。そのとき私たちは特定のドグマ的信念にしがみつき、国旗と呼ばれるボロキレ共々、 自分の国を崇拝したりするのです。【人生をどう生きますか?セクション2第2章第9節】

善良であるというのは今現在におけることである。それに対して、善良になるというのは未来の事柄であって、それは信念、あるいは比較と時間の公式にとらわれた精神が考え出したものなのである。比較計量があるところでは真の善性は姿を消してしまうのである。

あなたが単純になればなるほど微細なものが偉大であることに気付く。

私が自我を全体として完全に、すっかり見て取ることができた時にのみ、私は自我というものを理解し、そして自我から開放されるのです。

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