私たちの行為は観念によって形作られています。そして私たちの全見解は観念によって条件付けられています。したがって、観念が私たちの関係を形作るのです。その観念によって関係を形作ることは、関係の理解を妨げます。#fedibird
「こうあるべきだ」とされるもののこの模倣が、恐怖を育み、そして恐怖が創造的な思考を殺します。恐怖は精神と心を鈍らせ、私たちは人生の意味全体に対して鋭く目覚めていることができなくなります。私たちは自分自身の悲しみに対して、他の人たちの微笑や惨めさに対して鈍感になるのです。#fedibird
結局、何らかの価値ある行動、何らかの深い意義のある行為は、まず自分から始めなければならない。まず最初に、私が変らなければならないのである。#fedibird
あなたが自分自身について学び、自分自身を見つめ、自分自身がどんなふうに歩き、どんなふうに食べ、どんなふうに語るかを見つめ、ゴシップや憎しみや嫉妬を見守る時に、そうした事をすべて自分自身の内部で自覚すれば、それは瞑想の一部となるのである。#fedibird
思考は常に分離的なものであり、見るものと見られるものの間を時間と空間で分けてしまう。#fedibird
我々が真に孤独になれるのは、問題に直面したら問題を明日にひきのばさないでその場でそれを解決する場合である。それ故、多くの人がいる家の中にあっても、バスに乗っていても、孤独になる事ができるのである。この孤独が常に新しい心、天真爛漫な心を示しているのだ。#fedibird
もし私たちが、けちで、嫉妬深く、虚栄心が強く、貪欲であれば、その通りのものを私たちの周囲に生みだし、それが私たちの住む社会になるのです。#fedibird
信念は恐怖や伝統から生まれる。二千年あるいは一万年にわたるプロパガンダこそは、儀式、教義、信念といったものに包まれた、宗教的な言葉の構造の正体である。そのとき言葉はきわめて重要になり、そうした言葉の反復が、信じやすい人々を催眠状態に陥らせるのである。#fedibird
われわれが沈黙に耳を傾けないのは、われわれの耳が精神のざわめきでいっぱいになっているからである。#fedibird
意見というものはどれほどよいもので、筋道立っていても、それは真実ではない。意見は常にその当人の属している文化や受けた教育、知識によって偏り、色づけられている。#fedibird
執着のあるところに愛はなく、依存があるところには恐怖がある。#fedibird
宗教心とは、宗教を信ずる心とはまったく別物である。宗教心はいかなる恐怖も信念も存在しない心の状態であり、そこに存在するのはただあるがままのもの…実際にあるものだけである。#fedibird
もしも私たちが内的にみじめで、混乱しており、カオス状態にあるなら、それが投影されて世界となり、社会となるのです。なぜなら、あなた自身と私自身との関係、私自身と他の人との関係が社会だからです。【人生をどう生きますか?セクション1第1章第6節・自我の終焉第3章より】#fedibird
われわれはあらゆるものから自分自身を分離させ、しかる後に、その孤立したところからあらゆるものに目や耳を向けるのである。そのような分離こそは、あらゆる葛藤や混乱の温床であり、それゆえきわめて破壊的なのである。#fedibird
思考というものはすべて自由ではありえず、常に古い存在であることを十分に理解したときに生まれる沈黙は、瞑想者がそこに存在しない瞑想である。それは心が過去から完全に脱却したからである。#fedibird
自己を理解するというのは、一つの結論を得たり、目的地に達したりするようなものではありません。それは関係という鏡―「私」と財産や、物や、人間や、観念との関係を鏡にして、そこに映った「私」の姿を刻々に観察することに他ならないのです。#fedibird
我々は常に観念と行動を分離して考えるが、これは観念が常に過去のものであり、行動が常に現在のものであるからだ。つまり、生きることは常に現在であるからだ。我々は生きることに恐れを抱いており、それ故、観念としての過去は我々にとって重要なものになってくるのだ。#fedibird
宗教的な生き方についてあれこれ思いめぐらすことでなく、快楽や不幸、あるいは人間を取り囲んでいるあらゆる条件を曇りなく見ることが、何よりも大切なのである。#fedibird
もしも自分自身の生き方を観察するなら、あなたは人に従う以外の何もしていないことがわかるでしょう。この従属システムが、私たちが「生きること」と呼んでいるものです。人生は今、何の意味も持たないのです。意味はあなたがこうした権威をすべて脇にどけてしまう時にのみやってきます。【人生をどう生きますか?セクション1第6章第1節】#fedibird
善良であるというのは今現在におけることである。それに対して、善良になるというのは未来の事柄であって、それは信念、あるいは比較と時間の公式にとらわれた精神が考え出したものなのである。比較計量があるところでは真の善性は姿を消してしまうのである。#fedibird
インドの宗教家、哲学者クリシュナムルティ(1895-1986)の珠玉の言葉をお届けします。1日に4回、時に沈黙、時に暴走。09年よりTwitterにてご愛顧賜っていましたが、23年7月にapi接続不可になりました。23年1月よりfedibirdにお世話になっております。当初はIFTTTにて連携していましたが、23年4月、自動投稿プログラムを作り運用始めました。
書籍をお求めの節は→https://stonedpc3.wordpress.com/