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我々が真に孤独になれるのは、問題に直面したら問題を明日にひきのばさないでその場でそれを解決する場合である。それ故、多くの人がいる家の中にあっても、バスに乗っていても、孤独になる事ができるのである。この孤独が常に新しい心、天真爛漫な心を示しているのだ。

私たちが自分自身の意識の性質を理解し、この果てしない知識、行動、区別等々のサイクルの中でどう作用しているかを見、そしてその意識が何千年もの間維持されてきた事を見、それが一種の偏見に他ならないという真理を見てそれと手を切るなら、私たちは古いものに新しい要素を与える事になるのです

根本的にまちがった社会に、正しい生活などありえません。現在世界中で何が起きていますか?それがどんなものであれ、私たちの生活が私たちを戦争へと、広く行き渡ったみじめさ、破壊へと追いやるのです。これは明白な事実です。何であれ私たちのすることが避けがたく対立を、腐敗を、無思慮と悲しみを生み出すのです。だから現代の社会は根本的にまちがっているのです。それはねたみ、憎悪、権力欲の上に建てられています。ちがいますか?【人生をどう生きますか?セクション3第1章第1節】

もしも新生(リニューアル)があれば、その時私たちは死を恐れません。もしあなたにとっての瞬間から瞬間への新生があれば、死は存在しないのです。しかし、あなたが思考のプロセスの継続を要求するなら、そこには死があり、死への恐怖があるのです。

一つの思想に基づいたり、特定のパターンに盲従する革命は、革命などというものでは全くないのです。私たち個人の中に根本的革命を引き起こすためには、私たちと他のものとの関係の中で、私の思考や感情の動きの全体を理解しなければならないのです。

愛は無名であり、それゆえ暴力を生まない。快楽においては願望と意志がその動因であり、それゆえに快楽は暴力を生むのである。

もしも君が、言葉や理知の上ではなく本当に思考の構築物をそっくり否定すれば、おそらく君は新たなるもの―新しい生き方、新しい見方、新しい行為―を発見するだろう。否定こそは最も積極的な行為なのである。

我々はあらゆるものから自分自身を分離させ、しかる後に、その孤立したところからあらゆるものに目や耳を向けるのである。そのような分離こそは、あらゆる葛藤や混乱の温床であり、それゆえきわめて破壊的なのである。

権威は、それが信念や伝統の権威であろうと、あるいは道徳と呼ばれている習慣によるものであろうと、どれも邪悪なのである。

真理や真実を要求するとき、その要求は現在あるものに対する不満から生まれたものであり、従ってその要求は対立物を作り出すのである。

すべての思考は明らかに条件づけられています。自由な思考などというものはありません。思考は決して自由たりえず、それは私たちの条件づけの、私たちがもつ背景、文化、風土、社会的、経済的、政治的背景から生み出されたものです。

宗教的な生き方についてあれこれ思いめぐらすことでなく、快楽や不幸、あるいは人間を取り囲んでいるあらゆる条件を曇りなく見ることが、何よりも大切なのである。

社会は「あなた」と「私」との関係が生み出したものなのです。つまり、社会は私たち自身の内部の心的状態を外部に投影したものに他ならないのです。ですから「あなた」と「私」がお互いに理解していなければ、単なる外部―内部の投影されたもの―の変換は全く無意味なのです。

あなたが今変わらなければ、将来も決して変わることはありません。というのは、明日起こる変化とは単なる修正に過ぎず、変換ではないからです。この変換は即時に行なわれます。革命は今であって、明日ではありません。

結局、何らかの価値ある行動、何らかの深い意義のある行為は、まず自分から始めなければならない。まず最初に、私が変らなければならないのである。

本当は、あなたは真理や神を求めているのではないのです。あなたは持続する満足を求めているのであって、その満足を神とか真理というような観念や、体裁の良い言葉で覆っているだけなのです。

全的で、実り豊かな変革は、あなたや私が自分自身を一つの全的なプロセスとして理解するのでなければ、起こりえません。あなたや私は孤立した個人なのではなく、幻想や空想との、快楽や権力・名誉、安全などの追求、無知、葛藤、みじめさとの、人類の全苦闘の結果なのです。【人生をどう生きますか?セクション1第1章第7節】

生はたえず動いている。生は、多くの複雑で素早く変化する問題を内包しながら、決して静止することがなく、毎日毎分、新鮮なアプローチを要求している。だから、私たちがこの生に出会うとき、そこには条件付けられ固定化された心と、たえず動いてやまない生との間の絶え間ない葛藤があるのだ。

善良であるというのは今現在におけることである。それに対して、善良になるというのは未来の事柄であって、それは信念、あるいは比較と時間の公式にとらわれた精神が考え出したものなのである。比較計量があるところでは真の善性は姿を消してしまうのである。

無知は自己のありようについての理解の欠如です。そしてこの無知は表面的な活動や改善によって一掃することはできません。それはあらゆる関係における自己の働きと反応への不断の気づきによって一掃されるのです。

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