自己を理解するというのは、一つの結論を得たり、目的地に達したりするようなものではありません。それは関係という鏡―「私」と財産や、物や、人間や、観念との関係を鏡にして、そこに映った「私」の姿を刻々に観察することに他ならないのです。

もしも私たちが内的にみじめで、混乱しており、カオス状態にあるなら、それが投影されて世界となり、社会となるのです。なぜなら、あなた自身と私自身との関係、私自身と他の人との関係が社会だからです。【人生をどう生きますか?セクション1第1章第6節・自我の終焉第3章より】

宗教的な生は彼岸にではなく、人間の苦悩全体を抱えた此岸の方にある。我々が理解しなければならないのはこの事であって、理解するという行為こそは宗教的な行為なのである。

何かに興味があるとき、あなたはそれを即座にやってのけます。その時、即時の理解と変換が生まれるのです。あなたが今変わらなければ、将来も決して変わることはありません。この変換は即時に行われます。革命は今であって、明日ではありません。

宗教的な生き方についてあれこれ思いめぐらすことでなく、快楽や不幸、あるいは人間を取り囲んでいるあらゆる条件を曇りなく見ることが、何よりも大切なのである。

精神を時間から空しくすることから真実の沈黙が生まれ、そのことを悟ることはすなわち行なうことである。それゆえ見ることと行なうこととは何の区別もない。見ることと行なうこととの間隙に葛藤や不幸、混乱が生ずるのである。時間を持たないものは永遠である。

私たちはほとんど独立した思考や感情というものをもちません。思考や感情が起きるとき、それらはたんなる反応で、だからそれは既成のパターンから自由なものではないのです。

宗教的な生は彼岸にではなく、人間の苦悩全体を抱えた此岸の方にある。我々が理解しなければならないのはこの事であって、理解するという行為こそは宗教的な行為なのである。

思考の役目は道理をわきまえること、明快、客観的、能率的、的確に考えること、です。そしてもしもあなたが自分の虚栄心や、自分の成功、自分の達成に縛られていれば、的確、明晰、能率的に考えることはできません。

瞑想は生と離れて別にあるものではなく、それはまさに生の精髄であり、日々の生活の真髄である。

原則や理想を持たないで生きるということは、あるがままの現実と刻々に直面して生きることである。あるがままのものに実際に直面すること〜すなわち言葉や過去の連想や記憶を通さずに全的にそれに触れ、それにじかに接すること〜が正直ということである。

平和に生きるとはどういうことなのかを知るのは、愛する能力を持つ精神だけなのです。

自己を理解するというのは、一つの結論を得たり、目的地に達したりするようなものではありません。それは関係という鏡―「私」と財産や、物や、人間や、観念との関係を鏡にして、そこに映った「私」の姿を刻々に観察することにほかならないのです。

重要なのは人生のゴールが何かではありません。自分の混乱を、みじめさ、恐怖を、そして他のすべてを理解することです。私たちは混乱を理解せずに、ただそれを取り除きたいと思うのです。リアルなものはここにあるのであって、彼方にあるのではありません。【人生をどう生きますか?セクション1第7章第3節】

過去を現在に持ち越したり、過去に照らして現在を解釈していては、現在が持っている生きた美しさをとらえられない。

あるがままの現実を快や苦痛を交えずにあなた自身の目でじかに見ることが必要である。自由とはそのようにひたすら見ることであり、そのように見ることが自由なのである。そして自由であってはじめて、あなたは曇りなく見ることができるのである。

思考は新しい事実を見出すことができない。新しい事実は後になってから思考によって言葉の上では理解されるが、その理解は思考にとって現実ではない。

人は善であろうとして努力するが、その善の中にその対立物たる悪が存するのだ。断言的なことはすべてその対立物を有しており、何かを克服しようとする努力はそれが求めているものとは逆のものを強くさせてしまうのである。

私たちの行為は観念によって形作られています。そして私たちの全見解は観念によって条件付けられています。したがって、観念が私たちの関係を形作るのです。その観念によって関係を形作ることは、関係の理解を妨げます。

見ることは、ただ「あるがままのもの」だけが明らかなところの、否定の状態である。これに対して信念は偽善を生むところの虚妄の公式であって、その偽善こそはすべての若い世代が反抗している当のものなのである。

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