善良であることと善良になることとは別々の事柄である。善性の開花とは善良になることではない。善良になるというのは、善良であることを否定することである。「よりよくなる」という考え方は、あるがままの姿を腐敗させてしまうのである。

思考のおしゃべりがやんだとき、そこに理解の閃光がある。

思考というものはすべて自由ではありえず、常に古い存在であることを十分に理解したときに生まれる沈黙は、瞑想者がそこに存在しない瞑想である。それは心が過去から完全に脱却したからである。

「孤独」とは文字通り、何者にも染まらず、天真らんまんで自由であり、そうしてばらばらではなく一個の全体として、凛としてそこにあることである。

生きることの意味を十全に理解するには、私たちは自分のこんがらがった日々の苦しみを理解しなければなりません。私たちはそれから逃れることはできないのです。私たちが暮らしている社会は、私たちめいめいによって理解されなければなりません…誰か哲学者とか、教師とか、グルによってではなくて…【人生をどう生きますか?セクション1第6章第4節】

あなたがどう生きるか、あなたが日々の生活をどう生きるかは、あなたの責任です。もしも世界の平和を望むなら、あなたは平和に生きなければなりません。互いに憎み合ったり、妬んだり、権力を追い求めたり、競争に明け暮れたりするのではなく…

われわれの社会自体の道徳は実際には不道徳に他ならず、それゆえ社会も無秩序なのである。

私たちはあまりにも自己中心的で、自分の心配事や損得勘定でいっぱいになっているので、観察し、理解するための時間を持っていないのです。

我々の問題はどのようにして生と出会うかではなく、どうすれば心が、条件づけと教条、信念でいっぱいになったその心が、自らを自由にすることができるかということです。生と出会えるのは自由な心だけです。

自己を理解するというのは、一つの結論を得たり、目的地に達したりするようなものではありません。それは関係という鏡―「私」と財産や、物や、人間や、観念との関係を鏡にして、そこに映った「私」の姿を刻々に観察することにほかならないのです。

愛と正しく考えること(ライト・シンキング)だけが、真の革命、自己内部における真の革命をもたらすでしょう。【人生をどう生きますか?セクション1第4章第8節】

自分自身を知るということ―この大切なことを私たち人間は無視しがちです。自分自身を知ることこそ、何かを築きあげることができる唯一の土台なのです。

私たちはほとんど独立した思考や感情というものを持ちません。思考や感情が起きるとき、それらは単なる反応で、だからそれは既成のパターンから自由なものではないのです。反応…の中には自由などないからです。

無知な人とは無学な人のことではなく、自分自身を知らない人のことです。そして学のある人は、自分に理解を与えてくれるものとして書物や知識、権威に頼るとき愚かになります。理解は自己理解を通じてのみやってきます。それは自分の心理的プロセス全体への気づきです。だから教育とは、その真の意味では、自分自身の理解なのです。というのも、存在の全体が集められるのは私たち個々人の内部だからです。【人生をどう生きますか?セクション3第3章第6節】

思考や善行によっては愛は生まれない。思考の全過程を否定することから行為の美が広がり、それがすなわち愛なのである。それがなければ真理の祝福はない。

あるがままの現実を快や苦痛を交えずにあなた自身の目でじかに見ることが必要である。自由とはそのようにひたすら見ることであり、そのように見ることが自由なのである。そして自由であってはじめて、あなたは曇りなく見ることができるのである。

私たちは、私たちの思考が記憶の応答であり、その記憶は機械的なものであることをはっきりと理解しなければなりません。

悲しいことに人は空しさをおおうために所有へのいたずらな努力を重ねるのである。そのような努力から支配欲と自己主張が生まれ、それはさらに空虚な言葉と、過ぎ去って決して戻ることのない物事への様々な追憶を伴うのである。

宗教的な生き方についてあれこれ思いめぐらすことでなく、快楽や不幸、あるいは人間を取り囲んでいるあらゆる条件を曇りなく見ることが、何よりも大切なのである。

私たちが自分自身の意識の性質を理解し、この果てしない知識、行動、区別等々のサイクルの中でどう作用しているかを見、そしてその意識が何千年もの間維持されてきた事を見、それが一種の偏見に他ならないという真理を見てそれと手を切るなら、私たちは古いものに新しい要素を与える事になるのです

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