そういえば今朝、私のホームで、高齢の親のネトウヨ化に関する例の記事について、結局のところ一人でいることに耐えきれずに簡単につるめる仲間を作ろうとしてしまう、コミュニケーションのための安易な媒体を希求してしまうことが問題なのだろう、という話が出ていた。
そのすぐ近くに全く別の文脈で、自分の生きているこの日本の文化においてまったく承認されないというか、コンスタントに存在を黙殺されなんなら積極的に排除され他者化され続けて、問題を共有し支え合うことのできる人を希求しそのために力を尽くして疲弊し絶望していることについての投稿があった。
どちらもそれぞれの文脈において正しいのだに思う。とはいえ、多数派男性が孤独の安易な回避に走ることを戒める前者の観点は一般化されるべきものではなく、その文脈に依存した議論であること、「孤独の回避」はそもそも構造的に圧倒的に孤立させられてきた人々にとっては生存に関わる問題であることを、あらためて考えていた。
今のところfedibirdで何の不満もないのですが、mastodonってサーバーの引越しはできるのでしょうか?
毎日新聞のこの記事の主張はわかるし、とりあえず日本ではまずはこういう形で問題を改めて確認しておくことが必要だという判断も理解できる。
https://mainichi.jp/articles/20221219/k00/00m/050/207000c
ただ、個人的にはNYTのこのPodcastで言われていることに注意を向けておきたいと思う。
https://www.nytimes.com/2022/12/19/podcasts/the-daily/world-cup-qatar-soccer-football.html
つまり、最初から色々な問題が指摘されていたにもかかわらず、今回のW杯はカタールにとってもFIFAにとっても「大成功」だったし、だから今後もこのパターンが追求される可能性は高い、と。
特定の人権擁護を利用して別の側面でのマーケットの暴力を隠蔽することへの批判、例えば五輪とゲイライツの主張が一緒に推進されることへの批判などはもちろん今でも有効。ただ、今回のW杯が「成功」したのだとすれば、それが示しているのは、暴力を隠蔽しなくても人権擁護なんて黙殺しても商業的な成功はもちろん可能だしそれで構わない、という態度への方向転換がはっきりはじまっているということなのだろうか、とちょっと重い気持ちになっている。
Humans can be fallible, violence prone, dangerous to themselves, other species and the world, true.
But humans can also cooperate, achieve amazing feats, and even save the planet from devastation.
I considered this when I heard that 70 years after the first use of atomic fusion, humans have achieved *ignition* at the Lawrence Livermore Lab. That means more energy was produced from a fusion reaction than was used to power it. We have a long way to go, but this is a huge milestone! #Hope #Fusion
he/him Nothing about us without us harm reduction You'll never walk alone