たしかにプロレスを見ていると、「かけられる側の協力がなければかかることのない技」だとか「回避できる余裕はあるのに技がどうしても決まってしまうシチュエーション」だとか「技をかけるひとつの動きを完結させるどころか途中で切り上げて技をかけられる側に回ってるようにしか見えない流れ」だとかがある。たまに「レスラーが技を仕掛ける動きのタイミングを間違えて一旦元の体勢に戻るのが見えてしまう瞬間」なんてのも見る。そもそも海外の団体では、上場している関係で「筋書きが予め決まっている」ことを公表しているところもあるし、日本でも試合中の振る舞いに端を発したレスラー同士の裁判で、「事前の取り決め」があったことが認定される、なんてこともあった(さすがに団体や試合、興行によって有無も含めて違いはあるだろうけれど)。
しかし、そうだとしても、プロレスラーが十数分から長いときには一時間以上、体力を振り絞って、打撃や倒れ込みや落下による軽くはない痛みに耐えながら試合をしている、という事実は変わらないはずだ。(もう少し続く)
考えて欲しい。そもそも、映画やドラマだって、筋書きが決まっているのだ。役者は登場人物として、その人物の役を演じているのであって、実際にそのシチュエーションに曝されているわけではない。しかし映画やドラマが、ことごとく意味のないもの、空虚なものになるだろうか。
筋書きが決まっているとわかっているか否かの違いがあるじゃないか、というツッコミは重々承知だが、実は「筋書きの有無」すら問題にはならないはずだ、とおれは思う。映画やドラマがフィクションである、という前提を、見る側も演じる側も共有しているのと同じく、プロレスだって「(リング禍が起こらない限り)相手が死んだりすることはない」という前提を共有しているのではなかったか。