フォロー

自分も一応3年くらいはプロレス(しかも件の団体)をわりと熱心に見てたので、件の団体がなぜか唐突にいち議員のツイートに抗議するという事件について(ひとりの半端左翼ではなく)「プロレスを見てた人間として」なにか言いたいところではあるのだが、言うても見てたのは3年程度なので、プロレスというものの本質も、その周辺をかたちづくる要素も、比較的わかっていない。
自分が(今回問題?にされた括弧づきの「プロレス」ではなく)プロレスについてわかっているのは、「体をはっているというこの上なく強力な事実、それこそがすべての疑問疑惑疑念を組み伏せ3カウントをとれるほどの最大の説得力である」ということくらいだ。
(続きます)

たしかにプロレスを見ていると、「かけられる側の協力がなければかかることのない技」だとか「回避できる余裕はあるのに技がどうしても決まってしまうシチュエーション」だとか「技をかけるひとつの動きを完結させるどころか途中で切り上げて技をかけられる側に回ってるようにしか見えない流れ」だとかがある。たまに「レスラーが技を仕掛ける動きのタイミングを間違えて一旦元の体勢に戻るのが見えてしまう瞬間」なんてのも見る。そもそも海外の団体では、上場している関係で「筋書きが予め決まっている」ことを公表しているところもあるし、日本でも試合中の振る舞いに端を発したレスラー同士の裁判で、「事前の取り決め」があったことが認定される、なんてこともあった(さすがに団体や試合、興行によって有無も含めて違いはあるだろうけれど)。
しかし、そうだとしても、プロレスラーが十数分から長いときには一時間以上、体力を振り絞って、打撃や倒れ込みや落下による軽くはない痛みに耐えながら試合をしている、という事実は変わらないはずだ。(もう少し続く)

考えて欲しい。そもそも、映画やドラマだって、筋書きが決まっているのだ。役者は登場人物として、その人物の役を演じているのであって、実際にそのシチュエーションに曝されているわけではない。しかし映画やドラマが、ことごとく意味のないもの、空虚なものになるだろうか。
筋書きが決まっているとわかっているか否かの違いがあるじゃないか、というツッコミは重々承知だが、実は「筋書きの有無」すら問題にはならないはずだ、とおれは思う。映画やドラマがフィクションである、という前提を、見る側も演じる側も共有しているのと同じく、プロレスだって「(リング禍が起こらない限り)相手が死んだりすることはない」という前提を共有しているのではなかったか。

ログインして会話に参加
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。