新しいものを表示

これは深読みだけど、「さまざまなテーマで視点を掘り下げてみたときに、みなさんの人柄が文章に立ち現れる。こらが個性です。さらに、その文章から感じとれることが、個性に基づく味わいにつながっていくんです」という解説は、ショート動画が全盛期を迎えた2020年代において、ユーザー個々のパーソナリティが広告接触を増やすための材料にされている状況の端的な説明になっている気がする。

スレッドを表示

講師の先生が「スタジオの外」をちらちら見ている仕草に、「国語表現」の枠組みのなかで「読者を意識すること」の難しさを学べた。「表現の達人」が媒体性質に応じたパーソナリティの使い分けを目線や手ぶりで実践しているのも参考になる。
www2.nhk.or.jp/kokokoza/watch/

あとで読…めそうにないけど大事な論点を扱っていそう
unesco.org/en/mondiacult2022

kasaikouhei さんがブースト

紀伊国屋書店主導の出版流通改革、文教堂など参画 500店に║日本経済新聞
nikkei.com/article/DGXZQOUC244

2,000円くらいする電子レンジ用のパスタ茹で容器を買ったら、鍋茹でと比べて水消費量が75%減り、調理時間が50%減ったし、味わいは15%減るくらいで収まった。茹で汁が多めに欲しいレシピ(ペペロンチーノとかボンゴレビアンコとか)でなければ、使い勝手抜群だと思う。

1960-70年代生まれの政治家のなかには、バブル期に乱立した文化施設をいまでも「負の遺産」だと思っていて、素朴に「学術的意義」や「文化的価値」を主張する専門家に対して「無責任だ」と怒りたくなるひとが少なくないのかもしれない

kasaikouhei さんがブースト

【告知】日本の農業やその歴史、食の循環から動物や肉食を考えるための映画上映と勉強会を開催します。食とは何かを探求する広い目的を持ちつつ、命をいただく、牛の命と向き合う、ということに触れ、そのなかで、歴史的につくられてきた差別の問題も取り上げます。

申込:docs.google.com/forms/d/e/1FAI

日時:2024年8月4日(日)16時~
場所:京都大学人文科学研究所本館4階大会議室
上映する映画:『ある精肉店のはなし』 
参加費:無料
定員:50名(要事前申込・先着順)

主催:京都大学人文科学研究所藤原辰史研究室、野咲タラ
協力:北出新司、板垣貴志(島根大学)、KYOTO EXPERIMENT

・事前登録の上、誰でもご参加いただけます。
・私野咲が行ってきた農耕牛の記憶のリサーチの報告も少しします。
・2021年の朝日新聞のこちらの記事が参考の1つになります。
「何を食べても私の自由」が引き起こした環境問題 身の丈に合った食生活を求めよう(藤原辰史)globe.asahi.com/article/144875

議会答弁の曖昧で・回避的な・だらだらした語り口との接近でもあるのかもしれない。

スレッドを表示

政治演説・討論の話法が、ショート動画の撮影技法に合わせて進化している向きはあるのかな。

連続再生できる・字幕付きの・倍速視聴も一時停止もしやすい・URL指定された・十数秒ほどの長さの動画だと、サムネイルの新鮮さ、序盤の驚き、中盤の聴き応え、終盤のキレ味を両立しないと、いまひとつ拡散しないだろうから。

この変化が生じたのは、たぶん10〜20年前に、「売れ」に近いコンバージョンをさらに追求するよう求められたPR戦略企画者が、しばしばストレートで、ダイレクトな、ターゲティングされた表現に頼るようになって以来だろうけど、さまざまな話法が「ちょっと古くて懐かしいもの」になっていた感じはする。

・ワンフレーズ・ポリティクス(テレビ番組の映像編集テクニックに最適化した演説術。例:小泉純一郎、進次郎)とか、

・佐藤雅彦らの世代が手がけたTV CM(固有名詞連呼型。例:モルツ、ドンタコス、ポリンキー)とか、

・ビジュアルとテキストの調和/不調和で言外の意味を伝えるポスター術(例:西武百貨店)

・最後まで視聴すると商品名・メーカー名が分かるシナリオ(例:シャボン玉ホリデーによる牛乳石鹸のライブCM)とか、

・パンチライン反復型の演説構成(音飛びするラジオでも聴取者が意味を取りやすい。例:ヒットラー)とか

kasaikouhei さんがブースト

新旧メディアのどこを見ても、「短尺のニュースに憶測と偏見を塗り重ねた茶の間政談・井戸端会議がいやで、都会に出てきたんじゃなかったのか」という気持ちになる。古くて新しい政治姿勢が芽生えつつある

ITエンジニア界隈で、無料公開される技術パワポが連載読みものみたいに次から次へと読み捨てられていく感じとか、研究者向けの資料・データベースが(専門知識があれば何十年も遊べるほど)大量のテキストを豊富に取り揃えていることとか、そういえば最近はもう料理本を買わなくなったな(買ったものも昔ほどには多用しなくなった)とか、そういう意味での読書生活調査ってほとんどないよなぁ

活版印刷/劇場が普及して以来、主には宗教共同体や武士階級、都市の住民、農村の支配層などによってさまざまな所望されたフィクション(as 製品カテゴリ)というのは、もちろん物語消費のみを満たしていたわけではない。自己啓発や教養志向の受け皿であり、コミュケーション消費の起点であり、雑学・風聞も含めた時事情報の摂取源であり、識字能力を養うトレーニング・グッズだった。そう考えると、読字行為の想定負荷が期待される報酬に見合わないと見なされる状況の背後には、かなり複合的に入り組んだ「満たされなさ」があると見るべきだろう。直近30年の日本語史にとって、それはどのようなものだといえるか。

スレッドを表示

前提:さまざまな情報ニーズは大雑把に「紙からウェブへ」移り変わったわけではなく、その分野ごとに特色のある市場再編が進んだのだろう。

ゞネットニュース(のランキングページ)とSNS(のトレンド欄・推薦アルゴリズム)が新聞(紙の一覧的な構成)を代替した
・写真SNSや管理系スマホアプリ、How toサイト、実用系動画が「趣味・実用」「ファッション」カテゴリの上位互換になった
・勉強アプリと試験問題アップロードサイトが「学習書・参考書」の需要を奪った
…etc.

観点:ハイティーン向けフィクションの需要が文字からビジュアル(写真主体の雑誌、映画、漫画、テレビ…etc.)へと移転したのは20世紀後半からずっと起きていた現象のはず。

問い:テキストを主体としたフィクションの需要をいま、もっとも引き受けているメディアはなんだろう。チャットサービスやスマホゲームはそりゃそうだけど、全年齢で考えたときに。

スレッドを表示

コミック(as 出版カテゴリ)のページあたり文字数って、20世紀と比べて増えてるのかな。フルカラーのたて読み漫画は雑誌時代と比べて情報量が増えていると言われれば「そうかもな」と思うけど

社会制度をマクロにみると高齢層との待遇差に唖然とするけど、実生活で相対するお年寄りのほとんどは(めんどくさいひともいるけど、それも含めて)いいひとだということへのブルーな気持ちがある

古いものを表示
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。