イスラエルの行為の犯罪性なんて1年も前からわかっていた。今年はそれをやめさせ、侵略者たちを許さない年になってほしい。
イスラエルに戦争犯罪と警告 ガザの病院攻撃、国連が報告書
BT>MX1で 「 #都響 Morning Concert」観てる私はセーフw。今ブル7の4楽章。
日本だけじゃないんやな…
嫌だね
https://toyokeizai.net/articles/-/836868?display=b
社会的な身分は、わたしたちの想像以上に固定化している。10世代にもわたって受け継がれることすらある。
それじゃあどうするのか。そのヒントも本書には示されています。消費者が主体性をもって生産にまで関わろうとした「生活クラブ」や「大地を守る会」といった活動です。そこから学ぶことは今もありますが、率直なところそれだけの責任を消費者が引き受けるのは、手間も経済的にも容易ではありません。
そこで高度成長後の「生活者」の時代に登場したのが、堤清二率いるセゾングループでした。資本と消費者との関係をしかるべき水準で一致させようとした経営は、高い理想を抱いていましたが、しかしそれもバブル崩壊で蹉跌します。無印良品はその忘れ形見的存在です。
私が思うに、消費者は自らが消費者であり、消費者としての利害を第一に考えて行動することは、究極的には資本との関係を安定させるのではないか、資本もまたそのような消費者像を受け止めるべきで、「推し活」のような手法を慎むべきなのではないか、そういったことにまで思いが至りました。
消費者と資本の狎れあいとして私が思い出すのは、ファミマが「お母さん食堂」なるブランドの惣菜を売り出した時「今時そんなジェンダー固定化の命名はどうなのか」という批判が当然出たのに対し、「ファミマ様が何年もかけて決めたブランドにケチをつけるとは何事ぞ!」と叩く徒輩が湧いてきた件です。
別にファミリーマートの社員でも株主でもなさそうなのに、なぜ資本を擁護したがるのでしょうか。それこそ、消費者としての立場を忘れて、資本を擁護することでそれと狎れあい、消費者より強い資本と一体化したつもりになっているだけなんじゃないでしょうか。
「お客様」という言葉の氾濫は、そういった危なっかしさを世に広めてしまったのではないでしょうか。そうやって消費者を資本が囲い込む、その行き着いた先が「推し活」なのではないでしょうか。私にはそう思えます。そうして過剰な消費をさせるという、いわば焼畑農法に頼るほど危機は深まっています。
そこで登場した言葉が「お客様」でした。消費者→生活者を「お客様」に祭り上げることで、いわば消費者の側は自らの権利を追求する主体性を喪失し、しかもそれに安住するようになったのではないか、そんなことを私は感じました。それはいわば資本と消費者の狎れあいなのです。
この資本と消費者のように、あるいは権力と市民のように、本源的に対立構造が存在する関係において、市民の側が損をすることなく望ましい関係を続けるには、市民が資本や権力を監視し、その声を資本や権力が受け止めるという、緊張感をもって対峙する関係が必要です。でもこれは面倒といえばそうです。
その面倒さを厭うあまり、消費者や市民の側が、資本や権力と狎れあうことで、自分も資本や権力の側にいるかのような妄想を抱いてしまうのが、今の世の中の問題ではないかと、私は思うのです。一体化して狎れあうか、ひたすら敵視して攻撃するかの二択しかなくなっているのではないでしょうか。
消費者という言葉を活用したのがダイエーの中内功ですが、中内の具体的な商法とその意義については、満薗さんの前著『商店街はいま必要なのか』が分かりやすくまとめています。この本は手頃な近代日本流通史としてお勧めです。
で、『商店街~』スーパーを扱った章では、中内は消費者にも「賢い消費者」であること=良いものを安く買おうと努力することを求め、消費者の側にもそれに応える動きがあったことが描かれているのですが、次の章のコンビニでは様相が一変します。定価販売のコンビニを利用する消費者は賢いのか?
という疑問を『商店街~』を読んで私は感じたのですが、その疑問が『消費者と日本経済の歴史』で解消した感があります。消費者という言葉は高度成長を経て不十分なものと感じられるようになり、「生活者」というより広い言葉が登場するのですが、それがバブル以降の長期停滞期でさらに変転するのです。
今年も積読本が増えたといっても、読んだ本もそれなりにありまして、年の瀬に今年出て読んだ本を一冊紹介しておくと、満薗勇『消費者と日本経済の歴史 高度成長から社会運動、推し活ブームまで』(中公新書)はいろいろ勉強になりました。
「消費者」という言葉は戦後生まれですが、その発端は労働運動の激しかった高度成長初期ごろ、「労働者」という言葉に対抗する意味で生まれたのだそうです。労働者でない人はいるが、消費者でない人はいない、だから消費者のほうが上位概念なのだ、と労働攻勢に対抗する資本の論理を帯びた言葉でした。
もちろん元日はお目出度いのだが、今日こころ晴れ晴れという気分になれないのは、昨年元日に発災した能登半島地震の復旧状況が余りに酷いからだ。被災地からの報道やMastodonに流れる現地の情報を見るにつけ胸がつまる思いだ。
東日本大地震も発災からまもなく14年。未だに避難しておられる方々も多く、国は復旧・復興が成ったかのようなポーズをとってはいるが、現状はそれには程遠く、もはや見捨てられて人っ子ひとり見えない海辺には延々と続く冷たいコンクリート防波堤が続くだけだ。
明治以来の日本政府は恥ずかしくもなく棄民政策を良しとしてきた。今の自民党政権も結局のところ「東北や北陸の住民は見捨てても東京さえ守れれば良い」と考えているとさえ見えるのだ。同時に、それが嫌なら東京に出てる来て働け働け!という声も聞こえそうだ。
此れが「美しい国ニッポン」と、どの口で言うのか?
今年こそ自民党政治を潰す!
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能登半島地震から1年 課題抱え、再建へ歩み―死者504人、1日に追悼式:時事ドットコム https://www.jiji.com/jc/article?k=2024123100228&g=soc
委細はブログ「地誌のはざまに」を御覧ください。#江戸時代 の #相模国 の地誌・郷土史がメインです。
元twitter(ペケッター)には今でもフォロー・フォロワーのツイートを確認したりリアタイしに行ったりしていますが、現在はFedibirdの方がメインになっています。ブログの更新時のアナウンスにも使いますが、どちらかと言うとそれ以外の話題(クラシック音楽や社会問題など)が多めです。
朝方には気に入った野鳥や野生動物の写真をブーストしています。