エルデンリングdlc ミドラーとナナヤ
ナナヤの「耐えてください」って、あれ「がんばって!あなたなら耐えられる!」ってつもりだったんじゃないの?
じゃないとテキストの反語的なニュアンスが活きない。
角人たちは坩堝とかの生命の諸相を崇めてるし(高じて人の手で輪廻を作り出そうとするほどに)、狂い火の思想とはたぶん一番相反する文化だろうから、苛烈な弾圧しても不思議じゃない。ナナヤも古い時代の人なら似たような倫理観でもおかしくないわけで、だから剣抜いちゃったら生命終焉かもしれないから堪えて!って励ましたら、それがミドラーには効きすぎて、むしろ業苦が引き伸ばされて呪いとなってしまった、ってことでは?
あと、あの肖像画は美化されてて、ほんとうのミドラーは小人だったってことではないんか?
頭良くて狂い火宿しても壊れない程度の器は持ってたけど、とはいえ小人ゆえに角人にぶん殴られて拘束されちゃうくらいの弱い王にしかなれなかったってことだよね。ナナヤはその弱さの象徴みたいな夫の肉体の一部を生涯抱えて死んでいったんでしょ、黒幕とかじゃない気が…
ただ、わかんないのは角人が栄えてた時代って指が到来するより前のはずで、じゃあ狂い火どっから来た?ってことなんよ。
もしかしてマリカと角人たちとの戦いってかなり長期間やってるん?
エルデンリングdlc ミケラの、モーグとラスボスの扱いについて
なんでわざわざラダーンを半殺しにしてモーグの体使おうとしてるのか良くわかんなかったんだけど、もしかして大ルーン持ちにはミケラの魅了は効かないとかあるのかな。
だからマレニアに頼んで体だけ腐らせて大ルーンを落とさせ、高貴な魂だけを手に入れて、器に見合う強靭な肉の器がほしくて、神人の血脈だけど黄金樹の祝福は捨ててるモーグがちょうど良いってんで利用しようとしてたのかな。にしたってプレイヤーという狂人が現れなければ実現しないのは計画としてどうなん?ていう疑問はある…。現在進行形でモーグを籠絡しようとしてたとこに褪せ人が来て殺しちゃったから、渡りに船だった……?
そして実はいちばんわかんないの、あのマリカの命を至上としてるメスメルがなんでミケラの侵入を許してるのかってことなんよな。
ていうかあのボス並びだとミケラに手を貸してるとしか思えない。プレイヤーと戦ってようやく母を呪ったように見えたけど実のところ既に反旗を翻してたんだろうか…。
エルデンリングdlc トリーナ関連ネタバレ
ふせったー使えないからここで。
トリーナのイベント、じわじわグッとくる…
「愛を棄て」た場所にトリーナが捨てられていたことと、透明NPCに「自らの分身を救えずして何が神か」とかまで言われていたことを併せて考えると、なんかすごく……フロムにしてはものすごく…やさしい……
ティエリエくんへの感情も、なんかこう…あるよね…自分は選ばれてあなたは選ばれなかったことへの後ろめたさ、ごめんとしか言いようがない、この…この…
続きまだあるのかなあ ティエリエくんは決して自分で思うほどは弱くないから、なんとか立ち上がってほしい…たとえそれで袂を分かつことになったとしても(でももうこれ以上の侵入は勘弁願います)
『シック・オブ・マイセルフ』観た
欺瞞が大義を背負って大手を振って歩く世の中で、たいしたことない人間の滑稽な弱さが、誰にも省みられずに取り返しのつかないほどの傷に育っていく世界を、この映画は丁寧にえぐっていく。
ちなみにセラピーの会の露悪的なあの一幕は、わたしも経験したので爆笑した。そうなんだよ、傷ついた人間の集まりったってマウントみたいなの取ってくるやついるし、リーダーも偽善の塊ってこともよくあるんだ。良い人ではあるんだろうが。
しかし、それでいい。と映画は言っている。私にはそう聞こえた。
生きるしかない苦痛のなかで、嘘でもまず「自分は生きたかったんだ」と気づくことはとても大事だ。嘘にまみれた関わり合いのなかで、それでも見え隠れする「自分にとって揺るがない意志」を見つけ、いつか核として握りしめる強さを身に着けていかないと、こんな世の中生きていられないのだから。
欺瞞に満ち溢れながらも、どこか光の感じられるラストシーンと、その希望に浸ろうとすると唐突にぶった切られる音楽。その性格の悪さはとても誠実だった。
というわけで、わたしこれすき。
続
『シック・オブ・マイセルフ』観た
善人でも悪人でもなく、べつに賢くも愚かでもない主人公は、他人への無関心や、心にも無い無責任な使い捨ての称賛の連鎖に足を取られて、やがて自分が何を求めているのかすらわからなくなる。どうなったら幸せなのかがわからない。そもそも、私の名前を覚えてる人がいない世界で、私って誰なんだろう……?と
その泥濘にハマったときの足の重さや閉塞感を、映画は「ねー、お前も味わおうねー」と言いながら、丁寧に丁寧に再体験させてくる。
最初に倒れて担ぎ込まれた病院で医者に告げられる真実(幻聴)こそが彼女が自分自身に対して下しているジャッジであることは明らかだけど、彼女自身は映画の最後までそれに気付けない。その代わり「自分の真実(と思い込んでいるもの)」に蓋をしてしまうことで、ソレは曖昧でひたすらに恐ろしいモノとして、実際以上に巨大な何かとなって彼女を追い込むことになる。
彼女の周りのだれかひとりでも、彼女のことを見ていれば気づけたかもしれないのに、誰もみていない。見ていても遠巻きにする。普通に嫌な奴だから。でも、それは誰しもが持っている普通程度の嫌さでしかないとも言えるのに。
続
『シック・オブ・マイセルフ』観た
宣伝コピーが「SNSで加速する自己承認欲求に狂って自傷に走る」という内容だったのだが、実際は「自己承認欲求に狂っているように見える人の根底にある、無数についた引っ掻き傷」を解きほぐすように描いた作品だった。
主人公の寂しさの根底に恋人からの侮りがあることが繰り返し描かれることからも、それは明白だ。
他人の血を大量に被るという(本人的には)かなりショッキングな出来事に、まったく関心を示さない恋人。主人公は明らかに傷ついて動揺しているのに、恋人どころか誰ひとり抱きしめてもくれない。
恋人は新進気鋭の野心的な芸術家で、トリッキーなアートを制作しているが、その作品は彼女の協力(泥棒の片棒という反社会的行為)なくして成立しない。それなのに、名声を得るのは恋人だけ。作品に名前をクレジットしてくれるどころか、祝いの席で恋人として紹介されることすらない。
そして恐らく、恋人からのそんな酷い扱いにずっとすがってしまう主人公の根底には、母を捨てて出ていった父への複雑な恨みがあることも何度か匂わせられている。
でも、その話を聞いてくれる人はいないのだ。まったくいない。なぜなら、主人公もそれなりに(どこにでもいる)平凡なクソ野郎だから。普通程度には嫌な奴なのだ。私のように。
続
たぶんいまなんとか言葉にできるいちばんの本音
松本人志のどうしようもない話題にうんざりする。もうウクライナのことなんて忘れたかのようにガザのことばかり話す空気にもうんざりする。たぶんここで私がうんざりしているのは個々の話題への態度や是非などではなく、ニンゲンの変わらなさとどうしようもなさだ。しかも、この変わらなさとは愛しさの源でもある。だからこそどうにもならない。どうにもならないことを抱えて生きていくのが日常だ。だからわたしたちは時どき日々に倦む。言葉が吐き出される。けれど、最近のSNSではその種の疲弊を単純な政治的「テーマ」をあてがうことで表層だけを言語化して「変え」ようと言う。それがどうしようもなく耐え難い。生き物のどうにもならなさ、この倦厭、この無常を「私たち」が「変える」とかいうお題目にすり替えるのは、要するに見て見ぬふりと同じだ。腹の底からくる確信という痛みと四つに組むのを避けるための欺瞞だ。耐えられないことを耐えると言い張る覚悟もできない者たちが、ヒステリーを起こしてステージ型自傷を起こし、それがひたすら連鎖してるパフォーマンスを見ているようで胸が悪くなる。欺瞞は大事だ。生きるのに必要な技術だ。でも、それでも最近はそれを見るのがほんとうに耐え難い。ひたすら耐え難い。
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川口で「自警団」結成という内容で、外国人に対する暴力扇動になりかねません。
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