「正義」とか「悪」とかを実体化して語るところからして落とし穴で、担い手である人間が消える。前掲の関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺にしても、ある人間たちが・特定の信念にもとづいて・虐殺したというしくみを、抽象化して文学的修辞におとしこむのよくない。
「「やつら」を懲らしめようとする正義の暴走です。関東大震災の時の朝鮮人虐殺が、まさにこれでした」
https://www.asahi.com/articles/ASR9X3SH1R98UPQJ00J.html
佐藤冬樹『関東大震災と民衆犯罪』を読むと、自警団構成員は「殺してもいいという国家のお墨つき」が出たとして倫理のリミッターを外していたことが指摘されている。
「民衆は国家の後ろ盾を強く意識し、「公許の殺人」を犯したと認識していた」
「国家との間には、前線の兵士同様に「殺しても良い」という黙契が成立していた。当初の経緯を考えても、彼らがこの黙契を信頼するのは当然であった。言い換えれば、彼らは町や村を代表して、朝鮮人に「報復」を加えた」(以上、上掲書)
「俺がやる」と「やってもいいらしいからやる」との違い。「せっかくだから殺した」的な証言もあった。
「正義の暴走」と(いささか紋切り型に)抽象化する前に、国家という権威が許せばぶっ殺してまわる根性をえぐり出したい。
(2023年10月3日のツイートを再掲)
キリギリスが目に焼き付いていて今も家に入ってきてるんじゃないかって不安
でも虫からしたら自分の数百倍デカくて一発叩かれたら即終了なほど力が強い人間のがよほど脅威なのに"見た目"だけでその脅威を退けてるのすごいわ
これはスコットとハビの昔話なんですけど②
しかめっ面で気難しい彼の特技がクレーンゲームだなんて初めて知って、なんだか愉快になって、帰り道にせっかくだからと車のバックミラーに吊るしたら鼻に皺を寄せたスコットが子どもみたいな真似はよせ仕事用の車だろと止めるんだ。それが彼なりの照れ隠しであることはわかってたので、おとなしく外してあげる。あの日自宅に持って帰ったマスコットは今でもコンソールテーブルに鎮座したまま。
ハビだってそういう思い出ぜんぶ無かった事にしたいわけじゃなくて…無慈悲で融通が利かないが根は悪いやつじゃないと思ってるんだからスコットは恥も外聞もかなぐり捨ててもう一度チャンスがほしいって連絡して…(着地)
これはスコットとハビの昔話なんですけど
ある日出資予定者のひとりと話合いのために町外れの萎びたダイナーで待ち合わせしてたら先方から電話があって、急用でしばらく時間がかかりそうだから適当に休んでいてくれと告げられちゃってね、手持ち無沙汰になったところでふと店の奥にちょこんと置いてあるクレーンゲーム機がハビの目に入る。店主の趣味かな?ってフラフラ近づくとスコットも後ろを付いてくる。子どもの身長に合わせて作られたのであろう箱は大人の二人には少し小さいの。ポケットに手を突っ込んでみたらちょうど小銭が何枚か出てくる。「兄貴が友達とシューティングゲームに夢中になっている間、8歳の俺はこれで小遣いを浪費してた」懐かしさを覚えながらレバーでアームの位置を調整して商品を持ち上げるけど、落とし口にたどり着く前にポロッとこぼれ落ちてしまう。まぁ一筋縄ではいかないよなとわずかに悔しさを滲ませていたら今度はスコットがおもむろに小銭を投入してレバーを動かし始める。てっきり勤務中だぞと小言のひとつも飛んでくるかと身構えてたから拍子抜けして、しかもあっさりとゲットしてみせたもんだからさらにびっくりする。器用に片眉を上げ「コツがある」と胸に押し付けられた商品はボールチェーンがついた絶妙にかわいくないクマのマスコット。
メギドやったり映画観たりお絵描きしたり
CPの話もする