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最については、そう読み得る、という程度ではあるけれど。でも最が二方向の記号を纏っていることは事実で、女性の制服を着ているのだけど、挙措や言葉遣いは男性的〜フラットなものを選んでいる。

制服というのは強制されて着せられている側面がある訳だから、そうなると最が自分の性をどのように捉えているのかは分からない、何なら非女性として捉えている可能性はまあまあある、という風に読める。

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改めて考えてみると、性別が典型的ではないCLAMP作品キャラ、無性であると明示される場合もあれば(阿修羅)、イラスト表現から推察されるものこそあれ何も明示されない場合もあるし(琥珀、翡翠など)、無性〜男性(※)として生まれているけれど本人がどのような性を生きるか選択している場合もあって(雪兎、奈久留)、このテーマは物語の前景に出てこないけど結構色々な人達がいるのだな、と思った。
あと、服装の記号が表している性と本人の性自認とが同一ではない可能性のあるキャラもいるな、とか(城乃内最)。

※「〜男性」と書いたのは、スッピーが「それを言うなら奈久留くんでしょう」と発言しているところがあるため。

『ちょびっツ』久しぶりに読んだ。思いの外良かった……というか、序盤の男性読者に媚びるようなえっちいシーンの多さと、中盤〜終盤のCLAMP味の差がすごい。

ちぃ(エルダ)の起動スイッチが局部にあること、好きでもない人にそこを触られそうになったら超高性能パソコンの能力をフルに発揮してNOを言うこと、この二つの設定だけでも、結構フェミニズム読みできるかもしれないなあ、なんて思った(女性の性的自己決定権とかの)。

でもその一方で、やっぱりこう、男性読者を獲得するために譲歩している感が読んでいて辛くもある。人間男性が女性型パソコンを持っているのがディファクトスタンダードだし。

そして今読むと、『デ・ジ・キャラット』とかにすごく絵柄を寄せていて、うおあーCLAMPの時代読み能力の高さよ……と思う。そして、だからこそ上記のような男性読者に譲歩している描写にモヤモヤもする。この二つが一体不可分だと思える感じも。

確信は持てないのだけど、百目鬼が卵を使う瞬間(すなわち百目鬼が四月一日の意志に反して、彼が侑子を忘れる未来を選択する瞬間)に、百目鬼と四月一日のどちらの願いが成就するかというのは、四月一日が「ひと」であるかどうかに掛かっているのでは?なんてことを思う。

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「戻」3巻P.15〜P.18に次のような会話がある。

(侑子)「貴方も 貴方が思う時にそれを使えばいいのよ」
(百目鬼)「それが、あいつの望む所ではなくても …ですか」
(侑子)「ええ それでいいとあたしが貴方に託したのですもの どんな出逢いも出来事も すべてはヒトの願い故」
(百目鬼)「その願いが同じでなかったら 互いの願いが真逆だったら」
(侑子)「強いほうの願いが叶えられる それがヒトであるならば」

この会話は「戻」序盤の侑子のいる夢の世界から、侑子のいない現実の世界へ「戻る」か否かに関する会話のようでもあり、同時に現実の世界での百目鬼の役割を暗示する会話のようでもある。

で、この「それがヒトであるならば」という言葉に注目したい。4巻P.98で百目鬼は四月一日について「迷えばいい 迷うのは …おまえが「ひと」だからだ」と独語する。あるいは「籠」17巻で女郎蜘蛛が四月一日に対して次のように言う。
(女郎蜘蛛)「この傷も今はまだこのままだけれど いつかは八百比丘尼(あの子)のように 怪我もすぐ治ってしまうかもしれないわね 貴方の力がもっと強くなれば それも、もういらないんでしょう そんなものがなくても貴方には『視える』から そうなれば貴方は人間なのかしら それとも私たちと同じ存在(モノ)?」

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このこととどんなふうに関わるのか分からないのだけれど、四月一日は百目鬼に誕生日プレゼントを渡した際に彼とこんな会話も交わしている。

(四月一日)「‥‥射ろよ 危なくなったら迷わず射ろ それが何であっても」
(百目鬼)「おまえでもか」
(四月一日)「おれなら ‥‥尚更だ」
(中略)
(百目鬼)「また ‥‥選ぶんだな おれは」
(17巻P.171〜P.173)

これが事実四月一日自身を射ることになる伏線なのか、例えば「戻」4巻のラストで名前が出て来た「次元の魔女」を射ることへの伏線なのか、その辺りは分からない。のだけれど、とにかく物語は侑子が帰ってくるか来ないかというより、帰ってこないのは動かない前提であり、成就しない願いを抱え続ける四月一日がこのまま生き続けるのか、それともそれを百目鬼が終わらせるのか、という方に軸足を移しているような気がする。

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19巻P.169で、百目鬼が「これは まだ使う瞬間(とき)じゃないらしい あいつは今でも侑子さんの事を忘れてしまうほうが 辛いだろうから」と言っていることから想像するに、多分彼の手に渡った方の卵は、例えばそれを割ると四月一日が侑子のことを忘れられる、とかそういう力を持った物なのかな〜と思うんだけども。

この卵を使うタイミングについては、侑子は(四月一日ではなく)百目鬼の意志を尊重している。百目鬼は常に四月一日の側にいて彼の侑子への思いの丈を知っているから、自分にその決断(選択)ができるのかどうか、常に心のどこかで不安に思っている。

CLAMPの公式サイト見ると、『xxxHolic 戻』だけは「連載<休載中>」の文字があって(例えば『X』や『ドラッグ&ドロップ』にはない)、これは続きを期待して良いってことです???となっている。いやまあ『xxxHolic 戻』の続きは普通に読みたいが。

これ、CLAMPは敢えてやっている気がするけど……。

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というか、今ふと気付いたんだけど、どうして『xxxHolic』の店を訪れる客はほぼ全て女性なのだ?

CLAMP作品、道徳的なことを描くようになったら保守的な一面が出てきていて、それはまあある程度仕方がない部分もあると思うんだけど、何か昔の作品の方が色んな意味で自由だったよな、とは思う。さくさく人殺ししていた頃の方が。
『xxxHolic』の終盤が保守的で説教臭い感じなの、個人的には、何だかな〜と。

昴流が星史郎に似ていくとか、四月一日がクロウに似ていくとか、その「似ていく」って何なんだろうなあCLAMP作品において……。

14巻辺りから『ツバサ』なしでは読めなくなってきますね、『xxxHolic』。

アニメ版さくらにおいて、「夢」、「時」、「戻」のカードは小狼のカードだったんですよな。というのをね。というのをね!!

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クリアカード編批評をすべきなのかもしれないな〜……!!

四月一日が霊的な女性と接触して、親交を深める内に健康を害するようになって……って時に、その女性を消す選択をした百目鬼が「選んだだけだ」って言うんだよね。

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『xxxHolic』の、青年誌読者向けを装って最初から全くもってCLAMP節な雰囲気、読むとニヤニヤしちゃうな……。

桃矢がクリアカード編12巻で、桜に「もし 何が本当か自分で選べるなら おれは 無くしたくないほうを選ぶ」って即答して、その後桜の作る「選択」のカードが彼の図案になるの、本当に、うおお……CLAMP……。

クリアカード編、すごいCLAMP作品のエッセンスが詰まってる……。

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