「戻」3巻P.15〜P.18に次のような会話がある。
(侑子)「貴方も 貴方が思う時にそれを使えばいいのよ」
(百目鬼)「それが、あいつの望む所ではなくても …ですか」
(侑子)「ええ それでいいとあたしが貴方に託したのですもの どんな出逢いも出来事も すべてはヒトの願い故」
(百目鬼)「その願いが同じでなかったら 互いの願いが真逆だったら」
(侑子)「強いほうの願いが叶えられる それがヒトであるならば」
この会話は「戻」序盤の侑子のいる夢の世界から、侑子のいない現実の世界へ「戻る」か否かに関する会話のようでもあり、同時に現実の世界での百目鬼の役割を暗示する会話のようでもある。
で、この「それがヒトであるならば」という言葉に注目したい。4巻P.98で百目鬼は四月一日について「迷えばいい 迷うのは …おまえが「ひと」だからだ」と独語する。あるいは「籠」17巻で女郎蜘蛛が四月一日に対して次のように言う。
(女郎蜘蛛)「この傷も今はまだこのままだけれど いつかは八百比丘尼(あの子)のように 怪我もすぐ治ってしまうかもしれないわね 貴方の力がもっと強くなれば それも、もういらないんでしょう そんなものがなくても貴方には『視える』から そうなれば貴方は人間なのかしら それとも私たちと同じ存在(モノ)?」
確信は持てないのだけど、百目鬼が卵を使う瞬間(すなわち百目鬼が四月一日の意志に反して、彼が侑子を忘れる未来を選択する瞬間)に、百目鬼と四月一日のどちらの願いが成就するかというのは、四月一日が「ひと」であるかどうかに掛かっているのでは?なんてことを思う。