好き作品のキャラの似合う植物の話をお見かけして良いなーて思っている。
花をモチーフにした同人誌を出したのに、そういうことをそういえば余り語ってなかったな、と。
フェルディナンド、自分の存在や自分の感情に自信も確信も持てなかったとしても、マインちゃんのことを他の誰より理解している(※)っていう確信は多分絶対にあって、その確信の方がもしかしたら、自分を掴んで離さないような自我を持つよりも、よほど容易く信じられるものなのかもしれないなあ、と思う。
それを糸口として自分自身に至る方が、彼にとっては自然な筋道なのかもしれないな。
※前世のことをしっている、出自のことを知っている、貴族として生きている日々も知っている、本が大好きなこともそれ以上に家族が大好きなことも、能力主義的な物の考え方やお人よしなところや、ちょっと迂闊なところや、明るくて鷹揚でからっとした人柄、でも譲れないものをもつ激しいところ、すぐに人に譲ってしまうところ、実はとても寂しがりやなところ、自分に全幅の信頼を寄せてくれていること、自分を特別に大切に思ってくれていること、食べ物や飲み物の好み、不安になると後先考えずに動こうとしてしまうところ、体の弱さやその日の体調、必要なお薬の量、その他ちょっとした仕草や癖まで、とにかく何もかもあらゆること。
フェルディナンドはあんなに悪辣であんなに手段を選ばずあんなに倫理観を括弧に入れることができるのに、マインや彼女が与えてくれるもの、もしくは彼が大切だと思う相手に属する物事に対して驚くほど素直なところがあって(今回言いたいのはアーデルベルトやジルヴェスターに対する従順さの話ではない)、それが彼の性情の中の不思議な善美だなあと思ったりする。
マインとのぎゅーを意外に嫌がらなかったり、「家族同然」という言葉をストンと受け止めて喜んだり、再会してユルゲンシュミットより大事と言われたらその言葉を信じて生きてみようと思ったり、根っこのところでごくごく素直でひねくれていない面があるんだよね。それが彼を幸せの方へ引っ張ってくれているなあ、とも感じる。
フェルディナンドのこと猛獣だなーと私は言う訳ですけど、獣っぽいのはそういうところも含めてだな、と感じる。自分の心の底まで届いた物については真っ直ぐに受け取るというか、そこに留保や屈託を見ないところがあるな、と。
マインちゃんも意外と(多分無意識に気恥ずかしくて?)フェルディナンドが唯一無二の大切な人だよ、みたいなこと口にしないので、まあお互いちゃんと気持ちを分かりやすい形で伝えなさいねって感じなんですが……。
フェルディナンドさんはハン5の短編みたいに、愛されて当然ムーブしている方が健康的だし、もう生涯そういう境地に生きてくれた方が読者としては安心できるけど、まああの自意識でいきなりそれになるのは無理そうですよね!ってのは思うので……。
ハン5短編でマインちゃんを独占してご満悦なのは、独占すればマインちゃんからの愛情を取りこぼさずに済むからで、彼はやっぱり「愛されたい」人なんだな〜……て思う……。沢山愛されれば良いよ……。寂しくなるたびに追い縋って甘えて外堀埋めて沢山愛されれば、その内沢山愛することもできるようになるだろうから。
31巻の感想か何かに書いたんだけど、ローゼマインがディートリンデやアルステーデに対して激怒するの、フェルディナンドは全然共感できていないというか、ローゼマインが何にそこまで怒っているのかを余り分かっていない感じがあるよなあ、と思っている。
彼にとってマインは唯一無二の特別な存在だけれど、それはどうも彼の中で完結しているなあ、と。自分がマインに愛されている感触はあるとしても、自分がマインを思うようにマインも自分を思っている、とは多分感じていなくて、マインは自分じゃなくても良いのに自分を選んでくれたとか、何かそういう風に思っているだろうなあと……。
フェルディナンドがマインを捨てられないように、マインだってフェルディナンドのことを捨てられやしないのに、彼は今一つそこの相互性みたいなものに気付いてなさそうで、それは多分彼が自分自身の価値を低く見ているからな訳だけれど、その自尊感情の低さはマインちゃんを傷付けるからね……貴方は物じゃないからね……っていうのをね……いや今更なんですけどね……思いましたという。
アーシュラ・K・ル=グウィン著清水真砂子訳『こわれた腕環』の最後の方で、ゲドがテナーに、「それでは、まるで、ひょいと見つけて、ぽいと捨てる物じゃないか。わたしはそんなことはしない」と言うんだけれど、これをマインちゃんがフェルディナンドさんに言ったらとても良いだろうな〜みたいなことを思った。
フェルディナンドは「私が要らなくなったら捨ててくれ」とか言いかねない人な訳だけれど、それを聞いたマインは「捨てられる訳ないでしょう!? 貴方は物じゃないんですよ!」って言いそうだよねって思ったという話です。
「それとも、フェルディナンドはわたくしが不要になったら物みたいにぽいっと捨ててしまえるのですか?」
「は?私が君を不要に思うなどあり得ない。今話しているのは逆のことだ」
「わたくしをそれだけ大切に思って下さるのに、どうしてわたくしが貴方を同じように大切にしていると分からないのですか!フェルディナンド様のバカバカ!」
『違国日記』最新刊を読んだ。「基本的人権」に関するくだりにモヤモヤした。以前『違国日記』の作中で医大入試の女性受験者差別の問題が取り上げられた時もモヤモヤした。
似たモヤモヤを抱いたものに、『作りたい女と食べたい女』で野本さんがyakoさんと映画見る回があって、総じて何となく「説教くさい」「安直だな」と思った、ような気がする。それを安直と言うのはどうだろう、と自分でも思うけれど……。
多分、「基本的人権」「多様性」など既に社会に存在する様式を提示して、これを(この物語に/このキャラクターに)適用すれば全てがより良くなります!って言っている感じがする。というのが理由の一つ。
もう一つは、「基本的人権」や「性自認や性的指向の多様性」を具体的に実感させるのではなくて、「基本的人権ってすごいよね」「性差別なくしたいよね」「SOGI大事だよね」みたいな感じでお題目を手渡しをされている感覚があるから……じゃないかな。それが「安直」という言葉になっている気がする(もう少し言うなら、「私にそのお題目を言わないでよ、あんたが言いたいことは分かってんだよとっくに」と思う。だから「説教くさい」と感じる)。
どちらも社会的にあるべき描き方であり、社会に存在した方が良い作品なのは間違いないけれど、ウーン。
お、サークル機能使えるようになってる。登録ラッシュの時には上手く機能しなかったので不安だったけど!ありがたや。
ヲタクの考えごととうめきです。二次創作の話などが出ます。