汐留でやってるデンマークのデザイナーの椅子の展示も見たい
スタイナーの『師弟のまじわり』
ちくまから文庫化するのか。脱領域でも言語と沈黙でもないのか
師弟のまじわり (ちくま学芸文庫 ス-3-2) https://www.amazon.co.jp/dp/4480512527?ref=cm_sw_r_apan_dp_MPNJH39P39NWH7T9SZR0&ref_=cm_sw_r_apan_dp_MPNJH39P39NWH7T9SZR0&social_share=cm_sw_r_apan_dp_MPNJH39P39NWH7T9SZR0&language=ja-JP&skipTwisterOG=1
›「わからなさ」を受け入れることは他者への畏敬の念をもたらし、それでも「わかろうとすること」は他者とつながるための回路になる。「わからなさ」に偏ると神秘主義的になり、「わかる」に偏ると操作主義的に……
〈わからなさ〉に閉塞しないために倫理があって、〈わかる〉が過剰にならないために正義があって(逆でも成立するかもしれない)、どっちの極においても突き詰めるために壁を突破しようとするとき、存在論的な〈傷〉の受け入れと、存在的な修復の技法が大事なんじゃないかという気がしている
〈おとな〉になるってそういうことなのかもしれない……
https://x.com/ktowhata/status/1820241017268048201?t=VKQhRAKZFxIilLIaEumJvg&s=19
過現未