宗教とお金…
親族の葬儀を出した時を思い出す。
喪主である親族が対応しきれず、私が世話役をした。葬儀手配の合間に他親族から廊下へ呼ばれ「お寺さんからね、18ですって。用意してね」と言われた。
読経代と戒名代で18万円也、がお寺さんから請求されたわけである。
明朗会計ではあるが…喪主である親族に取り次ぐも「収入がなく払えない。だが葬儀は出したい」
結局、自分が全額用立てた。
18万円…自分の1ヶ月の稼ぎより多い額だ。すぐはいどうぞと出せる額ではない。何とか自力で支払い、その後読経を恨めしく聞いた記憶が蘇る。
今でも宗教とは信仰とは、と考える。
この記事指す「免罪符」を当時思い浮かべた。
買えば罪が許される…
読経代&戒名代が18万円という値段はその寺の檀家に対してかなり安い値段で、恐らく家族に障害者がいることや漏れ聞こえる経済事情を慮っての値引きがなされているのではと他親族から聞かされた。
とはいえ、である。払えない額だ。でも払わなくては先に進めない。
弔うためには払わねばならない。
さて、払った私の罪は許されただろうか。
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<コラム 筆洗>16世紀、神学者マルティン・ルターは買えば罪が許されると…
→ちなみに、香典は全て読経と戒名代以外の葬儀代に消えた。危うく香典返しまで私が持ち出さねばならなくなりそうになって…非情ではあるが「私はATMじゃありません!もうお金ないです!ご飯代まで使いました!」と思わず声を荒げた。
親族は信心深いわけではなく、檀家といっても仏教に信仰があるわけではない。でも、お経をあげねば、戒名がなければ故人は成仏できないという畏れ…ある意味強迫観念で何とかしてくれ、払ってくれとなる。
ならば市民葬でよかろうが、世間様に申し訳が立たないという見栄が邪魔をする。
宗教ってなんだろう?
信仰ってなに?
納骨でお金が新たに出ていき、仏壇を買えば魂入れだとお金が出ていく。次は法事だとお金が必要。新興宗教でなくとも。
こうして自分を振りかえると、親族の葬儀もそうだがキリスト教の教会へ出入りしていた時も回ってくる献金袋や献金籠にドキドキし、お金の心配がついて回った。
だが…宗教とは共同体であり、共同体の維持にはお金がかかるもの。住職も神父も牧師も神主も…どんな宗教者であれ人であり、人は食べねば生きていけず食べるにはお金が必要。
人が生きるために。
人の集団である共同体を維持するために。
では、いくらなら宗教と信仰のためと言えるだろう。
なんて考えるのは罰当たりだろうか。