→ちなみに、香典は全て読経と戒名代以外の葬儀代に消えた。危うく香典返しまで私が持ち出さねばならなくなりそうになって…非情ではあるが「私はATMじゃありません!もうお金ないです!ご飯代まで使いました!」と思わず声を荒げた。
親族は信心深いわけではなく、檀家といっても仏教に信仰があるわけではない。でも、お経をあげねば、戒名がなければ故人は成仏できないという畏れ…ある意味強迫観念で何とかしてくれ、払ってくれとなる。
ならば市民葬でよかろうが、世間様に申し訳が立たないという見栄が邪魔をする。
宗教ってなんだろう?
信仰ってなに?
納骨でお金が新たに出ていき、仏壇を買えば魂入れだとお金が出ていく。次は法事だとお金が必要。新興宗教でなくとも。
こうして自分を振りかえると、親族の葬儀もそうだがキリスト教の教会へ出入りしていた時も回ってくる献金袋や献金籠にドキドキし、お金の心配がついて回った。
だが…宗教とは共同体であり、共同体の維持にはお金がかかるもの。住職も神父も牧師も神主も…どんな宗教者であれ人であり、人は食べねば生きていけず食べるにはお金が必要。
人が生きるために。
人の集団である共同体を維持するために。
では、いくらなら宗教と信仰のためと言えるだろう。
なんて考えるのは罰当たりだろうか。