話は少しズレるけど、日本の反差別反ヘイトの主流がこの嫌韓嫌中的な文脈を軸にしているがゆえに、その実践を「しばき隊」的なありかたでやりさえすればあらゆる反差別反ヘイトに適応できると思っているのではないか、とここ最近考えている。残念ながら、反差別反ヘイトはシンプルな二項対立の図式に当てはめてできるものではない。
対ネトウヨ対レイシストの排除がなぜ「結果として」反差別反ヘイトの実践になるかというと、行為(=国籍差別などの言動がなされたこと)と属性(=ネトウヨである/レイシストである)がたまたま一致しているから。
差別言動を実際にしているからネトウヨ/レイシストとカテゴライズされるわけだから、これは当然のこと(行為の積み重ね→属性)。でも、この構図に慣れすぎるといつしか属性→行為の思考回路も醸成されてしまう。そしてそのまま「属性そのもの」だけで排除することの危険性がわからなくなる。なぜなら対ネトウヨ対レイシストでは「行為=属性」と判断して批判することができてしまうから。
批判すべきはあくまでも「行為そのもの」のみであり、行為主が持つ属性とは切り離しておかなければならない。ネトウヨ/レイシストだから批判するのではない。差別をしているから批判するのだ。
ネトウヨ/レイシストだからといって排除が許される環境においては、仮にそのネトウヨ/レイシスト属性を持つ者が別の観点ではマイノリティ性を持っている場合、たとえばセクシュアルマイノリティだとか障害者であるとかいう場合、そのマイノリティ性への配慮も不要と判断されることになる。なぜならネトウヨ/レイシストは排除されてしかるべきで、つまりそんな極悪非道な奴は地獄に落ちて当然だからである、そういう理論で反差別反ヘイトが実践されているからだ。
しかしそれは反差別反ヘイトではなく、単に反ネトウヨ反レイシストの実践でしかない。反差別反ヘイトであるならば、あくまでもその行為(=ネトウヨ/レイシスト的差別)に対してのみ批判をすべきで、その行為主丸ごと存在を否定すべきではない。
ネトウヨを排除せよ、レイシストを排除せよ、そうやって排除の方向性でやっていても「反差別反ヘイト」になってしまう。反差別反ヘイトは「自分と異なる存在の排除」ではない。しかしそれを自らがやっていることにはなかなか気がつけない。