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そもそもの問題として「著名人に直接触れる」という行為になんらかの快楽を覚えてしまう、その状況自体に違和感を持つ必要があるのでは?これ、性別問わずありますよね。さわっちゃった!みたいなの。性的欲求とはまた別の次元で、あるいはそれをも包括するさらに大きな次元で、他者に触れるということはどういうことなのか。著名人に直接触れることが武勇伝的なものになる感じとか(触ってやったぜ!)、そこまでいかずとも、知人に話すネタになる感じとか(肌すべすべだったよ!)、本当はよろしくないことなんじゃないの?それがプライベートゾーンであるかどうかとか以前の問題として。件のアーティストのはセクハラ・性暴力として捉えるべきものでもあるけど、それだけで終わりにしていいものじゃないと思う。

その著名人のファンじゃなくても、その人が著名人であるというだけで近くにいく、触ろうとする、みたいなのありますよね。そういう欲求、あるいはその行為自体をおもしろがる空気。

ファンならまだわかるけど、単に著名人であるというだけで握手してもらいにいっちゃうあの感じ、私にはまったく理解できないんですけど、どういう感覚なんでしょうか。今日はもう手は洗えない、とかもよくわからない。封建制度バリバリの頃に偉い人が道を通るときに下々の民が道の端に避けて頭下げてたのと、見た目の構造は逆だけど同じ機序なのかな。

あれもきっと、偉い人がいなくなったあとにその轍に触れて「ここを通ったんだぞ!」みたいな感じで感動する人もいたんでしょう?なにがたのしいのかよくわからないけど、それが「ふつう」の日本人なのだとしたら、なんかいろいろつながってくる気はする。アナキズムが足りなすぎるよね。

推しと同じ空気吸ってる〜!みたいなのも、その危うさを理解しながら楽しむのかそうではないのかでは雲泥の差だと思う。

著名人とそうではない一般人=私、という構図を人は作りたがるような気がする。本屋やってるとそういうの目にしやすいからなおさら嫌になるんですよね。作家=著名人と本屋=一般人、という構図。それを本屋が作りたがる。たとえば作家がお店に来ただけですごい盛り上がる、というか持ち上げる感じ。ご来店「くださいました」みたいな言葉遣いもそうだし、すぐにサインもらって飾り付けちゃうのとかもそう。対作家になると批評精神が0になる。もてなせ!褒め称えよ!ありがたがれ!のスイッチがすぐに入るし、それを隠そうともしない。こういうのとも繋がる気がする。

礼儀として「ご来店くださいました」的な言葉遣いになることやその報告をすることは構わないんだけど、なんかそこに過剰な「作家大先生!」感が伝わってくることが多くて、それが気持ち悪いんですよね。書店員個人のSNSも同じ。作品への絶賛と感謝しかしないの。

書店員による本の紹介が、すごい!感動!最高!絶賛!みたいな空気感のものにしかならないのも根っこは同じ。そういうの批判すると「それは本を売るためだ」とか言うんだけど、だから売れなくなってる面もあるでしょう?と私なんかは思ってしまう。正直、もうここまでくるとステマにしか思えないようなコメントだらけだから。特に日本の文芸小説系。ちょっと目の肥えた読者なら、ああまたこの書店員が推薦してるよ、しかも同じようなこと言ってるなー、とかわかるもん。そりゃ買わないって。読まなくても中身わかるし。

元の話とはかなり逸れてしまったけど、なんかどっかで繋がる気がするんですよね。批評精神がなくなっちゃう感じ、他者をすぐ崇め奉っちゃう感じ、とかが。とりあえず、本屋が本や作家を絶賛しかしなくなるの、きっと末期症状なんでしょうね。褒めないと売れないと思ってる。なぜなら、批評される=批判される=瑕疵がひとつでもある=売れない、みたいなわけわからん論理展開ができあがってるから。本来なら、他者から作品を批評されなくなった作り手に未来はないんだけど、本屋がその機会を奪ってしまってる。

で、さらにとても嫌な話をしますけど、そういう絶賛推薦帯コメントとか書いてる書店員、基本的に「原稿料はもらってない」ので。あれ、版元がゲラ先に読ませて「感想コメント付きで発注してくれたら発注数どおり納品します」的な条件で釣ってるときもあるんですよ。意味わかります?「感想送ってくれないと入荷しないですよ」ってことです。人質なんですよ、感想コメントが。版元の販促費は0、本は入荷される(=版元の売上はとりあえずたつ)し、原稿料払わないと依頼できない著名人に頼まずとも帯が完成する(しかもその書店員もそれなりに界隈では有名だから宣伝効果はある)、書店員も自分のコメント載るからうれしい、誰も批判しない、みたいなね。そして当然、ゲラを読みコメントを書くのは勤務時間外。

それとも常連書店員になると原稿料出てるのかな?それはそれで問題ですよね、出す人と出さない人がいるってことなので。原稿料でないけど図書カードもらえるとか、版元によって違いはあるから一概には言えないけど、基本的にはやりがい搾取で成り立ってる業界だということは変わらないです。そんななかでみんなで褒め合ってる。

出版業界の状況・空気感はそのまま日本社会の縮図なんですよ。やりがい搾取でなんとか構造を支えて、問題の根本にあるシステムの不具合を直そうとしない。いろいろなものごとが美談でなあなあにされる。差別やヘイトみたいな面倒なことには近づかない。権威主義的で、少し偉くなる=有名になる=売れると引っ張りだこになるし、なにをやっても批判されなくなる。

あ、大事なこと忘れてた。だから私は人文科学系などの本が「絶賛」的な態度で紹介される/売られているのもよろしくないと思ってます。エンタメ小説などと同じノリで作って売って読まれていいものじゃない、どんなに良質なものであってもそこに批評精神がなくてはならない本までもが、その「褒め」ムーブメントの中に置かれてしまっている状況、絶対によろしくないので。

たとえば反差別反ヘイトをテーマにした本を出した著者が著名人化・アイドル化していく空気感、私は真面目に危惧しています。権威にしちゃダメだし、常に対等の存在として接するべきでしょう?それが反差別反ヘイトの基本姿勢じゃないの?その抑制みたいなものを忘れた先にあるのが、もしかしたら元の話のような「触られ」案件かもしれないですし。

しつこく続けますが、著者がアイドル化し読者がファン化することには危うさがある、ということは肝に銘じておくべきです。マイノリティ当事者である読者が、マイノリティをエンパワメントするための本を書いた著者に感謝し応援したりする、というのはまだしも、少なくとも、当事者ではないアライが著者のファンと化して、というかもはや信奉者のようになりその者の言動を常に称賛する、みたいな状況になるのはまずいですよね。たとえアライであっても、あるいはアライだからこそ、常に批評精神を忘れてはならないと思います。当事者である著者が言っていることは常に正しいのか。そんなことはないのだから。

批評精神、たぶん距離のとりかたのことだと思うんですよね。あまりにも近くなりすぎると批判できなくなるし、逆に遠くなりすぎる=崇め奉るのも同様に批判行為へのハードルとなるので。アイドル=著名人の身体に無頓着に触れる行為も、これと似た構造にあると思う。アイドルが所有物と化し、ある種の見下しのような感覚も内在させているであろう無遠慮な触れ合い(特に男性→女性へのそれによくあるパターン)。これは距離感が近くなりすぎた場合。逆に遠くなりすぎて崇め奉ってるパターンが、花道歩いてくる歌手に手を伸ばして触れたくなっちゃう系の欲求。こっちは性別も年齢も関係なくあるけど、これは無遠慮とかではなくむしろ遠慮の塊であるがゆえの「あわよくば」みたいな感じ、ありますよね。いずれにせよ、適切な距離をとれていないし、特に後者の場合アイドル=著名人への批評行為はほぼ不可能でしょう。畏れ多い存在なんだから。

「おともだち」になって批評できなくなるのもあかんし、「畏れ多い」になって批評できなくなるのもあかんので、とにかく自分と同じところにいる存在として認識して接していく必要がある。無闇に相手を上にしない、あるいは自分を下にしない。

批評というとハードル高く感じてしまいがちだけど、「うーん、なんかそれ違うきがするなー、理論立てて説明はできないけどもー」みたいなのを思うだけでも十分に批評行為だと思うんで、理論バッチリの反論を相手に直接伝えないとダメ、ではなく、そのあたりは徐々に慣らしていく感じでいいと思うんですよね。

院生のとき面白かったのが、自分がゼミで発表したときに「根拠足りない」とか「研究足りない」とかボコスカ言われて、でもそれ言ってきた教授もまた学会発表では別の教授に同じこと言われてるし、なんならそこで指摘されてたことは私も同じように「そこ論拠不足してない?」とか感じたものだったりで、そういう経験ができたことで肩の荷がおりた感じがあったんですよね。知識の蓄積の質と量は当然教授のほうがあるんだけど、だからといってそれが私たちの関係における上下を規定するものにはなり得ない、ということなんですよね。私のほうがよく知ってる/理解しているものごともあったし、その関係性は固定的じゃない。

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