いま話題の『哀れなるものたち』で、ベラがパリの娼館で働き出して間もない頃、「女の方が客を選んだらどうか?」と提案して、経営者の年輩女性から「それでは商売にならない、女が嫌がっているのを喜ぶ男もいる」と諭される。そもそも働く決意をするのも「お金が必要だから」だ。(そして、唯一ベラに同調した女性は、経営者から「無料で口でのサービスをしてやれ」と命令されて拒否する権利もない)
ベラの性的な目覚めにフォーカスするあまり、この「女性が生活費を稼ぐ方法が性売買くらいしかない」という【選択肢の無さ】を見落としている人もいる気がする。
ベラは「私たちは自分たちの生活費を自分で稼いでいる」と誇り高く宣言して社会主義者の集いへの出かけていくけれど、それは金の力で彼女を縛りつけようとするダンカンへの「お前なんか必要ない」という宣言であって、「性売買に誇りをもっているのです」ではないだろう。

大吉原展を批判している方々の中に、現代の性売買については「一律批判するのは差別、性嫌悪」みたいな感じのひとが割といるので、吉原を別物扱いするのも「江戸アメイジング」と表裏一体だと思いますけど…っていう。

fedibird.com/@gohstofcain/1118
『哀れなるものたち』の話をもう少しすると、パリの娼館の場面は【女性の選択肢の無さ】だけではなくて、【自己決定の危うさ】も表現されていると思う。
ベラは雪のなかでホテルと仕事を探していて娼館に辿り着く、そこで経営者(遊廓でいうなら「やり手婆」に当たる人物)から声をかけられて、性売買に同意するのだが、ベラは身体は成人女性だが脳はまだ子どもなので、娼館のシステムも知らないし性病のリスクや妊娠のリスクについても知らない可能性がある。ダンカンとのセックスしか知らないベラは、自分も気持ちよくなれてお金ももらえるらしいと思って部屋に入るけれど、その最初の客は前戯も何も無しでいきなり突っ込むし早漏だしでベラは吃驚するもののお金を手にしてダンカンの元に戻る。
これが【性的自己決定権】の話に見える?どちらかと言えば、未熟な女性や発達特性を持つ女性を丸め込んで性売買に引き込む女衒の手口っぽくないかな? [参照]

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もちろんね、ダンカンにどうやって金を稼いだのかをあっけらかんと語るベラが性売買に「偏見がない」のは確かだし、ダンカンがキレるのはヤキモチ以上に被買春女性に対する差別もあるかもしれない。
良識的な人たちの常識に縛られないベラには、性売買もエクレアの売買も同じもので、ダンカンがキレる理由もわからない。でも、それは性売買の肯定なのか?
買春客達が基本的に全員マヌケで滑稽なものとして描かれているのも偶然だろうか?
「性売買のシステムを批判すること=被買春女性差別」ではない、ということが分からない人たちは、ベラが差別的に描かれない=性売買は肯定されていると短略的に考えるけど、『哀れなるものたち』は娼館で働く女性たちを差別的に描写することなく、自立した一個人として描きつつも、性売買のシステムそのものの暴力性と「被買春女性を見下す男たち」の存在も描いているように見えるんだけど。

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