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アリーナ論については、個人的には同意できる理由もあって端的に語れる話ではない。
ただ少なくとも世間一般の話としてこれだけアテンションエコノミーが幅を効かせるようになり、文脈を読み取ろうとせず短絡的な反応を好む人が増え、もはや言論を平等に闘わせるなどという概念そのものが消滅しかねない社会になっている以上、書店も当然に変わらざるを得ないと思う。

書店が民主主義社会における言論の揺籃として、世の中から投げかけられる様々な言葉と現実にある問題とを、書棚と平台をつかって物理的に体感できる形に編集して読者の眼前に提示しようとするとき、書店自身がアリーナとしての自覚を持ってその役割を果たそうとするのは、たしかに理想的ではある。(これはどちらかというと書店より図書館の側で散々議論されてきたことでもある)。
だがそれは成熟した言論空間が存在することを前提としているし、かつての雑誌や文壇のようなものもまた、あくまで言論を交わせる立場にあるという特権によって生み出されたものであることも、忘れてはならない。

ヘイト本が問題になるとき、まず第一に差別される者が存在しており、そこに覆しようのない権力勾配が生まれているのは明らかで、そのことと書店がどうあるべきかというのは別軸の話だ。
しかも例えば出版のもつ特権や性質を濫用して他者を貶めようとしたり、意図的に虚偽を広めるような本を出版したりするような「運動」は、それが個人から社会に向けて発された瞬間から社会そのものを蝕んでいくのだから、書店がアリーナであろうとするならば尚更、そうした差別的言動を許容できるはずがない。

この10年で、詭弁や陰謀論が蔓延るなかでも、武力による紛争が増えるなかでも、言論は人と人とが平和的に連帯して世の中にうねりを起こすために実際に必要とされているではないか。
書物や書店の意義を考えるまでもなく、本屋は人の言葉を人に届ける仕事なのだから、その取り扱い方もまたヒューマニティーを基盤とする。そこから始めれば良いと思う。

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