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弱者男性でありながら有害な男性性を発揮しないようにどうすればいいかに対してたとえば日本の男性論論者は次のように言ってしまう。

「誰をも殺さず、自分をも殺さず、現在と未来の誰のためにもならない無益で無駄な仕事を、死が訪れるその日まで、ひたすらに続けること。それこそが本当の意味での人生の「無駄」であり、ラディカルな忍耐であり、鬱々としたつまらないこの生に最後まで準ずることである。弱者男性としての尊厳をもって......」(男がつらい! 杉田俊介p.137)

これが「どんだけ辛くても耐えつづけろ」という単なるマチズモでしかないわけで。それができなくなるとすぐ反転して闇堕ちしてるのも目に見えてるし。

ポリコレ配慮の作品を見た時に制作サイドの意図とか忖度が見えてなんかイヤ、みたいな気持ちになるのはまぁわからんでもないけど、ポリコレ以前だってそういう意図や忖度はマーケティングの結果行われてきたわけで、今まで無邪気にそれに気づいていないフリをしていられたってだけじゃんと思ってしまうんだよな

ポリコレに配慮してるんじゃなくて、ポリコレに配慮してない作品が「世間に配慮」してるだけだからな。

シスヘテ男性だって「自分たちは抑圧されてるんだ!」って言っていいと思うし、言えないのはすっごく不健全だなって思いますね。男性について語ろうとすると「加害性」ばっか語らされるでしょ。対女性で自分たちがゲタを履かされてるとか、履かされてることに気づかないとかは大問題だけれど、自分たちのつらさを「抵抗主体として」「アイデンティティとして」表明できないのに「<個人的な>つらさや弱みを吐き出せないからダメだ」と言われるの抑圧でしかないと思うんだが。【それができないせいで】自分たちの苦しみを語れず。他人が語る苦しみを否定する方向にいっちゃうでしょ。

水星の魔女に限らず、日本のエンタメコンテンツにおける同性ロマンス匂わせは「BL/百合愛好者」を釣るのが目的であって、クィアは端から視界にない(見えてないからそもそも釣る気もない)のでクィアベイティングにすらなってないというのが正確なところなんだろうな…(という話を別ジャンルの件で過去の自分がしていたのを発見した)。BL/百合愛好者の中に少なからず当事者がいることを想定していないというか。実際ファンダムの主流は異性愛規範を内面化している層だとは思うけど(悲しいね)

企業側としては「BL/百合をフィクション(ファンタジー)として消費する層」を釣るのが目的であって、当然ながら同性愛者のrepresentationなんか考えてもいないし、家父長制や異性愛規範を脅かす言動は許容できないから「解釈」とか言い出す、ということなのだろうという分析はできるけど、結論としては「ふざけんなボケ」ですわね

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DHCは使うな。アパホテルには泊まるな。noteは読むな。Pixivはアカウント削除しろ。あいつは差別者だ。その差別者をいいねするなんて、フォローするなんて、リツイートするなんてけしからん。

「でも、Twitterは.....」

代替がない!

「代替はMastodon、気に入らなければBlueSkyもT2もたいっつーも、Threadsじゃダ......」

なあ!みんな人それぞれ、考えがあるんや!それぞれの選択を尊重できひん?否定するのはやめようや?!

「はい」

「四字熟語は漢詩というか中国語がもとになっている」というのを聞きかじり、それなら「肉屋を支持する豚」を中国語に翻訳すればどうかと思い立ち(このあたりを当初、ChatGPTに期待したけど叶わず)、Deeplに入力してみたところ「猪支持屠夫」とのこと。なるほど、猪が屠夫を支持するか、最後の夫を抜けば4字になるけどどうだろうかと思ったけれど、まあ私の理解も怪しいのでこの話はこのあたりで…と、ここでふとこの言葉に類語というのはあるのだろうかと検索してみたところ、「クリスマスに賛成する七面鳥」という表現があるらしきことがわかりました。なるほどー。

実際、私は「作品と作者は別」ってある意味ではそう思ってるけど、たとえばフィルスペクターの作品を聞いて感銘を受けることもあるけれど、でも、別の意味では作品と作者はやっぱり別じゃないと思ってる。達郎のそういう、言うても江戸時代から進歩一切してない「政治へのコミットはやめましょうよ!=お上に楯突くな」が透けて見えて、だからその分、音楽ダサいって思ってるし、非政治的に見えて「女のロール」を革命的に書き換えていってしまってる阿木燿子に感動してそっち聞いてる。

「作品に罪はない」って、たとえば映画に、麻薬で捕まった人が出てるからって放送しないとかは意味わからなすぎるけれど、取引先が少年への性加害をしてることを批判した人との契約を解除するような腰抜けが書いた「硝子の少年」(意味変わっとるやん)とかを今までと同じように聞けるかって言ったら感情的とかそういうことじゃなく、無理よなーって。全然違う話じゃない?

シンゴジラ、本当にひどいからね。その想像力の多くを3.11の原発事故という現実から得ているのに描いているのは「それがなかった世界線」。しかもそこでは官僚や政治家のおかげで国が助かり、デモ隊は徹夜で寝落ちしたゴジラ対策班らにうるさい罵声を浴びせただけ!みたいな描写になってる。

本屋lighthouseにはトイレはひとつしかなく、当然ジェンダーフリーというかあらゆる属性フリーなんだけど、事件性のあるものはなにひとつ起こっていないし、起こりそうになったこともない。つまり「ジェンダーフリーだから危ない」のではなく「そういうことをしてもいい/バレない空気がそこにあるから事件が起きる」ということ。ポリシーとして反差別反ヘイトを主張しているお店にそれをする意図を持った人間は来ない。だから性犯罪を防ぎたいなら「場の空気」を作ることが必須であり、それがなされていなければジェンダー別になっていようと犯罪は起きる。というようなことをもっとガチガチの論理で固めてから澱んだSNSに放ちたい。

小学校の保健体育の教科書には「思春期には異性への関心が芽生える」と記載、性的マイノリティは教科書から否定されてきた。文科省の学習指導要領が全く変わらない中、学校現場や教科書は変化。24年度から申請した全6社の教科書で性の多様性が触れられることに。良い変化。

一方で、記事で遠藤さんが指摘されているように、学習指導要領について「教科書会社が先に変わるというのは、いかに国の腰が重いかを表している。現実社会にある性の多様性に目を背けないでほしい」。まさに「社会はすでに変わっている」のに、政治だけがいつまでも変わらない現状を象徴している。

変わらない背景の一つ。教育を司る文科省、その副大臣は「LGBTは種の保存に背く」と発言した簗和生氏。今でもそう考えているのかと問われ「文科省副大臣の立場なので答えません」と拒否。こんな差別的な考えを否定しない人物が、教育を担当していることの恐ろしさ。
mainichi.jp/articles/20230328/

前にほんの少しの正社員と大多数の主婦パートという構成で成り立ってる業界で働いた時、一握りの正社員男性は家庭でも職場でも主婦の労働力を搾取することでその立場が成り立ってると思って、それを考え出すといつもクラクラして気持ち悪くなった。そこで働く人や、正社員男性の家庭が幸せかどうかは別として、構造の話としてね。

仕事にやりがいとか求めない方が心のためだと思うなど。だってたかだか一生の一側面でしかない。占める面積がちょっと広いだけ。

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