『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』アマプラ。実に40年ぶりに観た。初めて買った映画のサウンドトラックはこの映画、小学4年、当時はLP盤だった。
もう、内容は朧げで、なんか白昼夢みたいな映画だったよな、と思いつつ観始める。小4の私、この映画を完全理解していたのスゴいな。そこに、自分の高校での文化祭準備の風景が重なる(思えば古くさい学校であった)。校長室でコタツネコと校長がお茶飲んでる学校に勤務したかった(うる星の推しキャラはコタツネコ)。
温泉マーク、いまやそのマークは海外で違う意味になっている。この40年でいちばん意味合いが変わってしまったヒトだ。キミこそコタツネコをモフるべき(モフらせてくれんけど)。
確か、テンちゃんのペットは獏…、と、このあたりから記憶の引き出しが開き始める。同時にあれ?このモチーフは澁澤龍彦『高岳親王航海記』の「獏園」のような、そうでないような、とストーリーと共にたゆたう。
ああ、私がさまざまな映像作品で魅入られる原体験はここだったのか、な、しのぶがすれ違う風鈴売り。昨今のアニメ、風鈴売りとすれ違いすぎだと思う。ここが作品の白昼夢イメージとなっているんだな。美しく透明で時間と空間が交錯する刹那。劇伴も美しい。
イメージの断片が繋がってきた。つづく。
続き。(えっ?もうひと月経ったの?確定申告という時空の歪みよ…)
観ながら脳裏を掠めたのは萩尾望都「金曜の夜の集会」。消滅を避けるために年に一度過去へ逃げる町。少年少女が約束した明日は永遠に来ない。端正なSF短編。萩尾望都の世界に諸星あたるはいない。同じ設定ながらラムの夢という起点が与えられ、時空を超越する諸星あたるが存在するだけでこんなにも物語は甘やかでスチャラカになるものなのか。
そう、諸星あたるは時空を超越する。そもそも夢は時系列を無視するものなので当然なのだが、あたるが渡り歩く夢のひとつに映画版完結編の鬼ごっこが挟まれるのだ。長いこと2(本作)と完結編は対だよなぁと思ってきたのはこの1シーンの断片だったのか(理由を忘れ去って久しかった)。こうなるとやはり完結編が観たい。なぜセットで配信にならんのか。
この断片だけでセットとするのは半ば強引であろう、と思っていたのも束の間、これまた諸星あたるにガツンとやられる。選択肢のない中での選択を愛とは呼ばない。強制力が働く中でのそれは恋愛ではない。凄いな、諸星あたる。言葉にしないことで愛を叫ぶ男。これ、完結編のテーマと同じだ。やはり2と5は対。
およそ40年ぶりのBD、どれだけ自分の核(コア)となっていたのか、と思い知らされたのだった。