現在、北米でトランプ、南米でブルソナロを支えている「キリスト教原理主義」、ともにプロテスタント福音派。
逆にカトリック「原理主義」は存在しない。
というのも、カトリックでは15世紀位までは教皇や枢機卿、大司教などの高位聖職者も聖書を読まず、ローマ法を導入した教会法の専門家たちだった。
それに対し、プロテスタントの特徴は「聖書」の特権性を主張し、この聖なるテクストを「教会」という媒介を経ずに、個人(家長)が直接読む、という形式を生み出した。これがグーテンベルクの活版印刷と結びついて、教会以外の上層市民の家に聖書が置かれるようになったわけだ。
カトリックも1545年のトリエント公会議で「反宗教改革」の方針を確立、ある意味近代化との妥協をはかるが、やはりこの時点では信者が一人で「聖書」を読むのも禁じている。
つまり「聖なるテクスト」を個人で読むと「間違う」から。また多様な読みが氾濫し、分派が叢生した挙句組織が崩壊する。カトリックはそれを嫌った。
そのため、福音派のように、聖書、特に新約の福音書+黙示録を字義通り、「真実」とする暴走に歯止めがかかる。進化論否定もそこから出てくる。
逆にカトリックはその点は非常に柔軟であり、所属する科学者も多い。カトリック原理主義が出現しない一要因である。