そもそも関心の無い人に関心を持たせるのは至難の技だし、そんな技術は俺にはない。自分の政治的ななんやらは基本的には自身の精神衛生のための排泄だという自覚をもってやっている。人はそう簡単には変わらない。
『獣の奏者1』徹頭徹尾政治と外交、他者化についての話だと思ったが、驚くべきはこの物語が日本で人気があるという事。政治的なものを忌避し、憎んですらいる人が大多数のこの国で、政治的ファンタジーが好まれる妙。本当に理解に苦しむ。ヒロインであるエリンが日本に実在していたら、確実に潰されるタイプだと思う。あ、だから人気があるのか。
仕事ができて組織である程度のポジションを確立している人にも色々な人がいるけれども、カオナシが一定数いる…とずっと感じてきた。(まぁ私が知らない或は見えていないだけなのだろうが。)そのうすら寒い感じを、文章力に長けている人の一部からも絶えず感じる。twitterを始めた時から既に感じていたが、mastodonだとより鮮明になった感。金太郎飴的な…
最近、アジア映画やドラマは韓国系か中華系かインド系ばかりに偏っていたので、そろそろ違う地域の作品を観たいのだけれども、netflixには殆どなくてびっくり。それは視聴数も偏る訳だ。
複数の文化背景を持つ人間は自分自身が固有の文化を持つという場面に否応なくさらされ、それは精神的な面だけではなく国境と滞在という冷徹な現実にもさらされる。誰しもがそこで固有性を絶対的に確立させられるわけではなく、どこかで挫折し、妥協や欺瞞を抱えながら生きてゆくことになる。わたしにも日本、米国、ドイツという三つの場所にそのどこの場所でもない、どこか中間に自分がいる。もっと言えば、科学、という職業上の国際コミュニティもまたそこに存在するが、その何処かに確たる居場所があるわけでもない。エドワード・サイードは「out of placeこそ我也」と突き抜けたが、普通の人間は弱く、そこまでいけない。
この弱さと負い目、を救うのは、文化や国家に抗するにはあまりに儚い家族や友人という関係であるのだが、映画はその儚さへの、強烈な思い入れとある意味での不死性を描ききっており、米国ならではの名画になっている。
私も幼少期からそう思っていた。ただ、自身が転勤族の根無し草故に、常に“余所者”扱いしかされたことがないく、そのせいで冷たく感じるのか?という疑念も拭えておらず。しかし成人後、海外をあちこち旅するようになって冷酷さがあるのは間違いないなと思った。やんわりとではあるが、海外の人も度々そう評している。by旅先での私調べ。
海外に住んだことはなく短期滞在だけなので比較対象としては浅すぎるのかもしれないとは思うが。あくまでも私個人の今の見解としてはそうだ。
また、最近、日本は冷たい社会って色々書かれてるけど、わたしは15年以上前からそう言ってきました。昔、連合総研の依頼で、東京で講演。新自由主義の米国が如何に問題が多いのかについてをテーマにして欲しかったようだけれど、米国に比べてもずっと冷たい日本社会について論じました。文章も書いたけど、昔のだから、オンラインであるかな。インタビュー記事はオンラインでありました。https://diamond.jp/articles/-/2319 悲しいかな、日本の状況は悪化。もっと冷たくなってしまっている。
趣味:映画鑑賞、読書、陶芸、旅行
美術系高校・学部卒→デザイナー→経理財務