「それってあなたの感想ですよね」という子どもには「あなたの感想も聞かせて」って言うと良いよ。感想には価値があるので。
「感想」にも「気持ち」にも「怒り」にも価値がある。そこからだよ、小学生は。
弊学の応援団だけバグっててすき
https://twitter.com/hokudaiousui/status/1614036599574233089
もいっちょ朝の流れから
デヴィッドシルヴィアンとサカモトのコラボレーション
こいつは雑駁にいやぁ戦メリにデヴィッドのボーカル乗っけたもんなんだけど、決してお気楽に再生産したような代物じゃなく、このために作られた曲のように聞こえるのが美しきかな
#fedibird #NowPlaying
Forbidden Colours
https://youtu.be/qezTmpJpHXI
レディガガの"ポーンディスウェイ"がアメリカで大ヒットしたが、あの曲の解説に「メッセージ性が強いので注意」という注意書きが書かれるほどだ。日本人は歌に思想を入れ込むことを嫌うようになった。
民謡や子守唄にはそんな思想が流れていることがある。生きるつらさ、悲しみ、怒りや恐怖、それを歌にしてつらつら歌う、日本人にもそんな習性はある。が、西洋から輸入した西洋のリズムを持つ日本生まれの日本の歌はそれらをきれいに洗い流してしまった。
今、無邪気に音を奏で作り出し、無邪気に人を傷つけているミュージシャンたちを見て、「こんなことでいいのか」と考える後進たちが現れるんじゃないかと思っている。次の世代、その次の世代、「音楽ってもっと別の側面があるんじゃないのか」と考える若い人たちが出てくるんじゃないかと。日本の民謡や子守唄に込められた、人として生きることの葛藤や悲しみ、それを強いる社会への疑問や怒り、そんなものを自然に歌う人たちが出てきて、それが流行るんじゃないかと。日本人がそれを求めるようになるんじゃないかと。双方でそれが一致した時、日本の音楽はまた変わるんだろうと思っている。
「日本の〇〇が世界に認められて嬉しい!」という声を、そこかしこで聞くし、その気持ちは分からなくもない。「人間椅子」が海外でブレイクした時、僕もそういう気持ちになったから。しかし一方で、日本人は「海外」の事に関心が無さすぎるのは何故だろうとも思っていた。無論、僕自身も含めて。
そう思った理由も「人間椅子」がきっかけ。『針の山』という曲が「メタリカ」の楽曲に自分たちの歌詞を載っけた「替え歌」だったからだ。それに、彼らは「ブラックサバス」に傾倒している事もハッキリと言っている。
一方で、僕は去年「マキシマム・ザ・ホルモン」に愛想を尽かした。「サマソニ」で「リンダリンダズ」というアメリカのバンドの「カタコトの日本語」を「いじった」からだ。それ以前にも海外フェスで「日本語が分からない連中に日本語を教えたった」という動画をYouTubeに上げていて、観客を「アホばっか」と言っている姿を見て、「あの事件は起こるべくして起きた」と思った。僕は今、彼らを心底軽蔑している。
僕は今日、野村玲央氏のブログを読み直して、日本人の「差別意識の低さ」と共に、海外に目を向けようとしない自分を大いに恥じた。
https://leoleonni.hatenablog.com/entry/2022/08/21/064513
最近のリベラルに思う事。それは「言葉が外に向かっていない」という事。Twitterをやっていた時、僕のTLに「リベラル系」の人たちのツイートが流れてくるのだけど、その言葉を目にするたびに、「誰に向けての発言なん?」「それが外部の人に届くと思ってるん?」という気持ちになった。彼ら彼女らの言葉は「身内ウケ」しかしない「薄っぺらい」ものが多い気がした。「これは一体、誰に届くん?」と。
「年金も払えないのに戦闘機買うなバカ」というプラカード。
「まずは総理から前線へ」というキャッチコピー(糸井重里氏がつくったみたいだけど、レベル低く過ぎん?)
そういう「身内ウケ」しかしない「薄っぺらい」言葉を、フォロワー万越えのアカウントが拡散しているのが情けなくてしょうがなかった。僕が「〇〇新聞氏」を最後までフォローしなかったのは、そこの感性の「鈍さ」が苦手だったからです(たまに陰謀論も混じっていたし……)。
かつて、大塚英志氏が「素朴な反戦への回帰」を訴えられていました。某アニメ雑誌で、自分の小説の代わりに「イラク戦争」の話を載せた時、読者に向かって「自分が少しでも戦争は嫌だなと思ったら、それを口にすればいい」と述べられていました。だから、
「戦争は嫌だ!」
ストレートにそう言えばいい。僕はそう思う。
加齢に伴う老化をひしひしと実感している大人
雪かきしなくてもいいところに住みたい