局地的にですが、ゆる言語ラジオが広がって(局地は広がったとは言わないのか)嬉しい。晩ごはん作りながら、葡萄の種取りながら、よく観てる。
今井むつみ先生が出てるやつが特に好きです。アブダクション推論、わっくわくやで。
https://www.youtube.com/watch?si=sa4CCpB7SaZjnACL&v=hNULhZPWmD8&feature=youtu.be
まあ、国に覚悟がないのはそのとおりだけど、市民の側の覚悟も足りてない気がする。
国側は、自律して考えられる人が増えたら困るんだろうし意図的にやってるんだろうけど。
だからこそ市民の側が変わっていくしかない、変えていくしかないんだけど、自分で変えようともしないし、変えられるとも思ってないし、自分自身が変わろうともしない人が多すぎるというか、そうじゃない人が少なすぎて、いつまで経ってもクリティカルマスに達しないというか。。。
政治問題だけでなく、差別問題も環境問題も同じで、どこか他人事で他責でお客様な感覚で、まるで主権は自分にはないとでも考えてるみたいな。
いつも言ってることだけど、決断することと、その決断から生じる責任を全力で避けて、現状維持になってしまう保守的な圧力が強い気がする。
>BT
サムネはひどいが、話している内容は、本の紹介として滅茶苦茶に面白い。学校における作文教育・歴史教育の「型」が国によって異なり、それが日常の思考形態をも縛る、と言うのは、当たり前と言えばそうなのかも知れないが、非常に自覚しづらいのも確かだ。
紹介されている本:
「論理的思考」の文化的基盤(渡邉雅子)
https://www.iwanami.co.jp/book/b631492.html
なお、同じ著者の岩波新書が、まもなく刊行されるらしい。当然、上記の著作を踏まえた内容なのだろう。
https://www.iwanami.co.jp/smp/book/b652403.html
ズレっぷりがすごい。ひどい。
PTは課題として、スマートフォンやゲーム、ネット交流サービス(SNS)の普及に伴う「読書離れ」の深刻化による来店客減少▽返本が自由に行える「委託配本制度」など、粗利率を抑制する流通慣行▽大規模書店を優先した配本による小規模書店の販売機会の喪失▽公共図書館の複本購入や新刊貸し出しによる売り上げへの影響――などを指摘した。(引用)
https://mainichi.jp/articles/20241004/k00/00m/020/289000c
「余剰」なお金の使い道っていうのはほんっと〜に人それぞれだから、ちょっと贅沢な食べ物に使うよりも本を買う、本を買うよりも音楽に使う、音楽に使うよりも服に使う、服に使うよりも友達と遊ぶ、交際費に使うよりも化粧品に、化粧品よりもアニメフィギュアに、フィギュアよりもスニーカーに、などなどなど色々あって、お金に余裕があっても本は買わない、というひとももちろんいるだろうと思います。お金が無くても食を削ってでも本は買う、というひとももちろん。でもとりあえず「ちょっとの余剰」の割合が増えれば増えるほど、この……言い方はすげー悪いけどいわゆる『余計なもの』に触れる機会はすごくすごく増えると思ってる。底上げをしてほしい。豊かってそういうもんじゃないの。
スズメも…?
あいつもこいつも絶滅危惧種になるの…?
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241006/k10014602081000.html
「採点の大変さを国家はコストとして払っている」「自律的に判断できる市民を育てるための覚悟がある」って、ほんとこれなんじゃないのかなぁ。
日本は、なるべくコストかけずに「合理的」に教育しようとしてる気がする。期待される回答範囲をめっちゃ狭めておいて、そのあらかじめ自分に期待されている、ものすごく限定された解釈しかできない答えをピンポイントで探し当てられる人間だけを選別していてて、自分で考えて「答えを出す」んじゃなくて、出題者の期待に添った「答えを探す」ことを最優先にする感じ。
だから思考結果も借り物っぽくなっちゃうんじゃないのかなぁ。「正しい答え」がどこかに存在していて、なる早でそれを見つけて「正解を知ってる側」になって安心したい、みたいになりがちな気がする。
出題者の期待に添った回答になっているかどうかしか見ないなら、採点は楽だよね。回答者の思考に踏み込む必要がないから。
一見「合理的」で、低コストで、見かけ上の「公正さ」も確保できるけど、教育する側、評価する側のコンフリクト回避と責任逃れでもある。
「 「論理的」は、地域によって違う #372」
一方で昨年の秋、ガザ侵攻の直前であるが、講師として参加したドイツでのワークショップにはイスラエルから参加したイスラエルの大学院生がいて、彼は徴兵で軍隊にもいたとかで、パレスチナ人のことをどう思うのかと聞いたらニヤニヤしてそうは言わないがおちゃらけた感じの口調でテロリスト扱いであった。彼はイスラエル以外の国に住んだ経験はないしおそらく国外で他者とまともに話したこともないからであろう、すえた漬物のような自己同一性ががあからさまであった。例えば日本のネトウヨが初めて訪れた東南アジアのどこかの国で、南京大虐殺は大袈裟だとか言っているような状態である。黙ってそれを聞いたが、実に不快であった。私は彼と話さないことにした。
ごく狭い分野の専門家のネットワークを作るとほぼあらゆる国からのメンバーになり(アフリカだけあまりいないが)、国籍と住んでいる国が違うのは当たり前であるし、中にはイスラエル人やロシア人もメンバーになる。イスラエルのネタニエフが悪魔的所業を行っていると言っても20年前から知り合いのイスラエル人は悪魔的とはとても言えない。数年前私の親族がパレスチナに住んでいることを知ってかなりきまり悪そうな顔をしていたので、ああ、国が良くないことをしていると思ってはいるのだな、と思った。「あそこは国というかなんというか微妙」というので「私は国だと思う」という会話をした。とはいえそれぞれの国籍よりも専門家集団の仲間としての帰属意識と共通のアイデンティティがあるので、信頼関係のボトムラインが存在する。
自分があまり動き回れない生活をしながらもなんとか食い繋いでこれたのは、イラン出身の教授達がプログラミングの基礎を叩き込んでくれたお陰だし、イラン人の同級生もいたし、元ルームメートや友達にはロシア人もいるし、今もイスラエル人と仕事もしてるけど、ざっくりと「〇〇人」で括って、自分の恩師や知人や友達や同僚にまでヘイト向けられるとイラっとする。
戦争や政治体制が嫌で海外に移住した人もいるし、国に残ってる人もいるけど、みんなが戦争や現政権を支持してるわけもないし、どっちにしたって、国籍や民族や人種や宗教やイデオロギーで差別したり存在を否定して良いことにはならない。
学生の頃、ロシア人の友人達と一緒に移動してても、友達は「ロシア人」ってだけで毎回国境で長時間足止めされて、尋問されたり酷い扱いを受けてた。まだ15〜16歳とかの子供だったのに。イランから移民して国籍とった教授だって、アメリカの大学と共同研究する時はめんどくさいバックグラウンドチェックがあったりしてたし、体制側だけじゃなくて他の市民からの偏見も根強いし、いわゆる東側諸国や中東諸国出身者に対するヘイトや差別は酷い。
しかもやってる側は無自覚なことが多くて、ユダヤ差別もそうだけど、反差別だとか人権だとか反戦だとか言ってる連中が、ど真ん中の差別をしてくるからほんと油断できない。
暮らしかた研究所 烏頭のおやま の所長です。
山に住んでいます。
https://linktr.ee/utounooyama
苦労するミュージシャン、スギムラリョウイチの姉。好きな毛虫はクマケムシ。
ここでは好きなことを言わせてくださいごめんなさい。