"低線量被ばくとがん死亡率との因果関係が立証された論文の扱い|まさのあつこ 地味な取材ノート"
https://note.com/masanoatsuko/n/n4ac5abed84c9
たとえば、清方の「ためさるる日」(大正7年)とか馬鹿らしいとおもっていたんだけど、これとか「なるほど」となったやつ。
これは島原遊廓における踏み絵がモチーフだけど、左隻の花魁(太夫)の厭そうな顔と、右隻のもはや醒めきった顔が描かれている。文字通りにはそれでいいんだけど、そもそも、ここで目指されているのは、そういった歴史画的なものだったり描かれる花魁(太夫)の心理描写だったりではなく(いやそれはあるんだけど)、「花魁」という浮世絵表象をいかに解体するかなのだ。こんな不安な表情をした花魁が浮世絵で描かれることはありえなかった。
https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/25269
もうすこし文脈を補足する。
清方の「ためさるる日」は大正7年だけど、大正3年に東京大正博覧会がおこなわれている。このとき、博覧会の便乗企画として吉原で花魁道中の復興がおこなわれる。ここで花魁道中をやらされた花魁の白縫が翌年人権侵害を訴えて自主廃業している。娼婦と蔑まれながら、たんなる好奇の眼にさらされる「再現された花魁道中」が苦痛でなかったはずはない。
大正になって、すでに終わってしまった花魁道中を復元しようとすることは、博覧会に来るであろう外国人観光客にむけてのジャポニズム的な文脈もあるわけだけど、江戸期浮世絵の表象をニッポンだとして生身の身体を抑圧することが大正期の雰囲気としてあったと言える。
そういう前提を置いて、「ためさるる日」を見ると、「浮世絵」というイメージそのものを攪乱することが清方の目標になっていると理解される。花魁の白縫が花魁道中を強制されたのは、江戸期浮世絵表象にまつわるセルフオリエンタリズムに起因するが、清方の絵は「浮世絵」というイメージそのものを揺さぶろうとしている。清方がセルフオリエンタリズムを批判したとか言いたいわけではない、そんなパースペクティブが彼にあったはずがない。そうではなく、浮世絵というイメージの固定性が問題だったのだ。
たぶん清方の絵がこのような解釈をされた試しはないはずで、それは大吉原展のキュレーションを見ればわかる。
今朝になったら、足首の腫れが昨日の半分くらいになってる!
店については正直考えられてないが、日常のことができる。
ああ、身体が資本…
QT: https://www.threads.net/@utounooyama/post/C6LfFHlyBOR [参照]
大変に!!!!! よかった!!!!!! よかったと言うのははばかられるのだけど、よかったです。ガチのマンションの一室で「本当に……ここか……??」とドキドキしたし最初自分だけだったけど、あとからいろんな国籍のひとが来てたよ。「パレスチナの解放なくしてクィアの解放なし」の前で立ち尽くしてしまった。パレスチナのクィアのメッセージが書かれた大きなボードがあって、一枚一枚見ていたら苦しくなった。この部屋のすべての言葉の向こうにひとがいる。
緊急展示企画:パレスチナに連帯するクィアのプラカード
https://ira.tokyo/event/12486/
子宮確保数での自治体消滅分析しぬほど不快でしたね。生産緑地か。いや生産緑地の方がまだ大事にされてるんじゃないかな……丸山知事がちゃんと批判してくれてよかったです。
丸山知事「日本全体の問題を市町村の問題にすり替えている」「ナンセンスだ」
https://news.yahoo.co.jp/articles/52655167c8e770bfc28757e9e618d96f2d3727a7
昨夜のニューヨークの公立図書館。
「イスラエルへの武器支援をやめよ」
ニューヨークのこういう黙らないところは素晴らしい。
(ペケからの引用)
https://twitter.com/bayoumimoustafa/status/1782928521842630708?s=46&t=ohULUKF2vxPWOI6SEtklEQ
隆祥館・二村さんは構造の問題である話のなかにエモさを入り込ませて、結局そこに話を終着させがちなので、正直やめてほしいと思っている。今回の話も、多くの者は二村さんの「パニック障害=人とのあたたかい交流の場である本屋=無人書店などけしからん」に引っ張られて、そこに議論の軸をもっていくことになってしまう。
暮らしかた研究所 烏頭のおやま の所長です。
山に住んでいます。
https://linktr.ee/utounooyama
苦労するミュージシャン、スギムラリョウイチの姉。好きな毛虫はクマケムシ。
ここでは好きなことを言わせてくださいごめんなさい。