夫婦で話してても、女性に対する慢性的な抑圧状況について話しているのに、「弱者男性」の苦しみと、何故か対立軸になったりする。
どちらも抑圧されているのだから、何故抑圧状況になるのか、ならないためにはどうするか?を考えるのがシンプルなスジなはずなんだけど、「大変なのはお前だけじゃない」になってしまう。
なぜだ…?
どっちも被害者じゃん。
どちらにも辛さの吐露が、まず必要。
どちらにも辛さのケアを、次にする。
そうして初めて、問題の解決のためにはどうするか?の話ができるのかもしれない。
議題をテーブルに挙げたつもりなのにテーブルの上がごちゃごちゃになるのを防ぐためには、ステップが必要なんだと思う。
けどさ、誰がそれするのかな。どちらも被害者なのにね。
この世は勝ち負けでできている。
勝つために一番使えるツールは金と暴力だってことは、普通に事実だ。
そして、勝つとその時は楽になる。抑圧を跳ね返す。
露悪的であることがリアリストであるという錯覚についてさっき書いた。
そこには、論理的な繋がりはない。
繋がって感じるのは、「悪」が「善」を凌駕することを証明したのだと感じているということ、つまり、露悪することで「悪」陣営に立ち、そこに「善」という対立軸を想定しているから。
理想主義者が「善」でぶん殴ってくる、と善悪の戦いのテーブルに乗ったということ。
こういう戦いのテーブル、ぜんぜん悪いこととかではないと思っている。ほとんどの現代人に刷り込まれた性質のようなもので、そこで本気で戦う人もいるし、冗談でちょっと滲ませる程度の人もいる、だいたいみんな乗せられてるやつだから。
ケアレスだけでも「辛さの言い合い」になる。
権力のある人がさらに自分に力を集めようとするときは、その権力を使って何か適当な敵陣営をやり玉にあげればいい。
あいつがお前のクッキー盗ってるぞ!ってやつ。(自分はクッキーをいっぱい囲い込みつつ。)
そこへインターネッツがエコーチェンバーして、架空の「陣営」へ囲い込んでいく。陣営と陣営の戦いになっていく。
辛い人同士を、議論のテーブルじゃなくて、勝ち負けのテーブルに乗せる。
とてもひどいことだと思う。
そしてこの戦いのテーブルの上では、辛さをなんにも解決できないのだ。