28 August 1891 | A Pole, Mikołaj Siemion, was born in Ratoszyn. A teacher, member of Polish Legions. During World War II engaged in resistance. Father of an actor Wojciech Siemion.
In #Auschwitz from 30 July 1941.
No. 19846
He was shot in the camp on 28 October 1942.
さて、星野智幸という作家の「プチ転向宣言」、ある種のクリシェではあるが、なかなかに味わい深い以下のような深い台詞もある。
「ずっと社会派を期待され続けて、嫌になったりしないんですか?」
これは「ある友人」の言葉で、これを聞いた時、星野氏の「頭は真っ白」になったと云ふ。
これはある意味根が深い問題で、日本の文壇では「社会派」とレッテルを貼られると、「作家」としては「純粋性」が低い、と見られる傾向がある。そもそも「純文学」という概念は日本にしかない。
この圧力は大江健三郎レベルの作家でさえかけられていた。「大江の小説はいいが、エッセイは戦後民主主義的でつまらない」と言われ続けたのである。大江がノーベル賞を取った時、加藤周一さんが「彼にとってよかったじゃないの。」とコメントしたのは、そうした文壇内圧力から「解放されるかも」という意味だった。
こうした旧弊を武田泰淳、埴谷雄高、大岡昇平、堀田善衛などの「戦後文学」は打ち破ろうとしたが、1960年代以降、次第に巻き戻され、1990年に入ると柄谷行人が「日本近代文学の終り」を口にするようになった。
いずれにせよ、現在の「文学」がかつての言説とはまるで別者であることは確か。星野氏の件はゾンビ化した文壇ハビトゥスを白日の下に曝したと言えるかも知れない。
朝日の例の記事の後に、この方のツイートを見て。
フワッと左だと思われたくない人も、ガチネトウヨになる人も、動機は寂しさというか、孤独にまつわる不安感なのではないかと思った。
自分の考えを臆せずに語るには度胸がいる。孤独をものともしない気持ち、相手をむしろこちら側に引き寄せてくれようという気力が要る。
ある程度の年齢になって、もう自分は社会の中で必要とされなくなりつつあるのかもしれない、という不安が膨らんでくると、そういう気力が維持出来なくなり、まだ自分の言葉で語ることが出来る人への嫉妬に取りつかれてしまうのではないかと。
イギリスで以前、孤独問題担当大臣というのが設置されて話題になった。
主に福祉的な役割を想定したものだと思うが、社会的な孤立から、過激な排外主義に傾倒して、しまいに警察沙汰になってしまう人の多さを思うと、治安対策としても、孤立者への対策は何か考えた方がよい気がする…。退職と介護の間の空白を自力で埋められない人へのサポートが要るのだと思う。
久しぶりに帰省したら親がアレになってるの、嫌じゃん。
https://x.com/bokukoui/status/1828292827819975164?t=W7UOk8yTW-wd2lPlLRtY_A&s=19
「「やつら」を懲らしめようとする正義の暴走です。関東大震災の時の朝鮮人虐殺が、まさにこれでした」
https://www.asahi.com/articles/ASR9X3SH1R98UPQJ00J.html
佐藤冬樹『関東大震災と民衆犯罪』を読むと、自警団構成員は「殺してもいいという国家のお墨つき」が出たとして倫理のリミッターを外していたことが指摘されている。
「民衆は国家の後ろ盾を強く意識し、「公許の殺人」を犯したと認識していた」
「国家との間には、前線の兵士同様に「殺しても良い」という黙契が成立していた。当初の経緯を考えても、彼らがこの黙契を信頼するのは当然であった。言い換えれば、彼らは町や村を代表して、朝鮮人に「報復」を加えた」(以上、上掲書)
「俺がやる」と「やってもいいらしいからやる」との違い。「せっかくだから殺した」的な証言もあった。
「正義の暴走」と(いささか紋切り型に)抽象化する前に、国家という権威が許せばぶっ殺してまわる根性をえぐり出したい。
(2023年10月3日のツイートを再掲)
この前の戦争展で「プロパガンダに協力し続けたことを反省して、戦後のメディアで一番頑張ったのは、実は読売新聞だったんです」という話を聞いた。社長や幹部の戦争責任を追及して、社内の民主化や待遇の改善を掲げて闘争して、頑張っていたのだが、レッドパージで負けたんだと。「それで読売新聞を去った記者たちがどこに行ったかといえば、赤旗ですね」まじか全然知らんわってなった。
きょは #ijuin 深夜の馬鹿力はそら脳だ
きのこ。しろい。くろい切株が好物