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仕事の前に近所を散歩してきた。在宅勤務の前に外に出るのは元夫が亡くなって以来。元夫の病状がよくなくなって子供達が心配したのでほぼ毎日朝近くの元夫の家に様子を見に行っていた。元夫が亡くなって目的もなくなったら朝外に出ることはなくなった。
今朝は雨上がりで外がキラキラしていたのでなんか外を歩きたくなってぐるっと一回りしてきた。ちょうど小学生の登校時間で、ランドセルと校帽の子供達が歩いていて嬉しくなった。子供達は可愛いな。
帰りは近くの大学の構内を通った。道の両側は並木になってて日陰になってひんやりして歩くのにとても気持ちがいい。
また気が向いたら朝散歩しようと思う。

自分の今までの習い事とか子供達がやってきた習い事とか、あまり深く考えてはいなかったけど、今、毎日の自分の心の豊かさにとても関わってきてるなあと感じるようになった。
子供達には小さい頃、身体動かす系と音楽系とそれぞれ習わせてきて小学生になってから娘達はお習字を習い始めた。隣の神社の社務所で。子供達の息抜きリラックスな場で、何気なく通ってたら長女は師範をとり次女も後を追う位に。息子はちょうど離婚引越しでタイミングを逃しお習字はやらなかった。お習字は上手く字を書くというよりむしろ絵画に似て自己表現だなと感じる。長女も次女もとても美しい字を書くけどそれぞれ違う。そして習った事のない息子は、小学生の頃、「拾い読み」とかいう不思議な言葉をお習字で書いたので、しばらく家に飾ってた。↓は高校の時書いた息子のお習字。私には意味はわからないけど、やっぱり表現だと思った。

私がひとり親として過ごした10年で、生活保護受給、母子寮入寮と貧困の真っ只中にいて気づいたことは、貧困者に対する世間の一般人の針のような視線だった。お金がない人にはこのくらいの対応でよかろうという蔑み差別が毎日外から押し寄せる。その分際で生意気だと言う気持ちを隠しもしないで責めてくる。どうするの?と詰め寄ってくる。家の中に入ってきて何か相応しくないものを買ってないか見回される。その中でやっつけられないで自分を保っていくには、スーパーサイヤ人のように常に殺気だっていなくちゃいけない。何か言われたら反論できるようにしておかなくちゃいけない。今はもうそこから抜けて毎日穏やかだけど、その過去の記憶が、ものを見る目を変えたのはしょうがないと思っているし、それを経験したことはこれから生きる上で何か必要なことだったんだろうと思う。子供達には希望すればいくらでも勉強させる。

母子寮入寮の時に、寮の方に長女の大学進学を考え直すように言われた時、火を噴いたように私は怒ってその助言に反して長女を進学させた。今、間違ってなかったと思うし、大学に入ってからの次女の頑張りや成長、長男の意欲を思うと最後まで私の中にその火を消さないで、親としての役割を果たしたいと思う。

離婚後10年、子供達の事での大事小事あらゆる決断を自分1人でやらなくちゃいけないことに対して、時々自信がなかったりどうしたらいいかわからなくなったりして、あー相談できる一緒に考えてくれるパパがいたらと心底思ったけど、逆に共同親権とか言われると何も決めることができなくなっていただろうなとも思い、悩ましい。

たとえ奨学金をもらってたとしても、大学生2人抱えて留学もさせてちゃんと卒業させることができるのか不安になってきた。学費を更に上げるとか円安とか。一方で、息子のお友達は皆ヨーロッパやアメリカなどの留学に行く予定で、1ヶ月程度の短期留学でもアメリカだと120万ほどかかるらしく、どんな家の子たちだと思ってしまう。

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