みんなどんだけ“人権”に興味ないのかというのがどんどん浮き彫りになる思いで毎日過ごしてます。結局なにかしらゴシップ的な側面や“〇〇の闇”などの見出しに見られるようなイメージにひかれているだけなんだな。マスゴミがーとか言いながらそういうマスメディアが作り出す型には無批判にのっていくのもおかしな態度だわ。
語の関係性として不適切な部分があったので編集し直しました。
「オートガイネフィリア」それ自体がトランス女性差別のために作られたジャーゴン(結局、フェミニンな装いをした自身に対する “性癖” を持つ “男性” としてミスジェンダリングしつつ差別的に扱っている)ではありますが、
オートガイネフィリアという差別的概念を構成する「フェミニンな装いをした自身に対する」という部分に関しては、フェミニンな装いをしうる・そのような自身を想像しうる者なら性別に関係なく持ちうる指向ないし嗜好ですし、
「トランス女性がそのようなセクシャリティを持っていると見なされるべきではない」と読み取られかねない書き方だったので、修正しました。
トランス女性というアイデンティティを “男性の持つ性癖のひとつ” というように曲解されるのは紛れもない差別、ということを言いたかったのですが、言葉足らずでした。申し訳ありません。
「 “英語圏” ではペドフィリア(小児性愛者)はチャイルド・マレスター(小児性暴力加害者)と同義で使われている」とかいうご忠告、何様のつもり?
“英語圏” の差別主義者たちの撒いている印象操作とデマをベースにして実存を議論することに、わたしはなんの意味も見出だせない。
差別によって奪われた言葉は、当事者たちにリクレイムされていくべきものだし、ウチら「クィア」は今までもずっとそうしてきたでしょ。
それともなんですか?
もしも “英語圏” におけるトランス差別の文脈で、
トランスフェムという実存が“オートガイネフィリア”だとか“女装性犯罪者”だとかと同一視されていたのなら、
あなた方はその場合も同じように “英語圏” を基準にウチらが各々自分を表す言葉をそうやって奪い取って、「わきまえ」させてくるんですか?
J.K.Rの数々の差別発言やBLMの発端となったアメリカでのヘイトクライムやその反動のALMを知っておいてもなお、21世紀の“英語圏”の人々が差別をせず正しく用語を運用できている、という前提に立てる発想はさすがに意味不明すぎます。
昨日の会見のことでタレントが出てくるから一応来たみたいな芸能記者の質問がーという内容の批判をしているのをラジオで聞いてなるほどと思ったけど、それはそうと国連の会見のときなんてその比じゃあなかったですよあなたって思ったね。しかもその会見のことすらみんなすっかりでしょあなたとも。
てかもうTwitterで本音とか言えねーってなってるわ。どうでもいいってのもあるし。めっちゃ良い本とか読んでもお前らなんかに教えてやるもんかって思ってるわ。
そもそもこれは「反差別の実践をしていても生じてしまう、気づかれにくい差別」についての、身内どうしでの自己点検的な議論であり、そもそも意図的に差別や加害をしたがっている者=極右などは眼中にないし、入れるべきでもない。反差別の目的を「差別主義者=極右などを倒すこと」だと捉えているからこうなる。
Twitterで含まないだの排除だのやってた人が、ヘイターの”それでは理解されない”というトンポリ的な口封じを批判してて泣く。
香月真理子『欲望のゆくえ 子どもを性の対象とする人たち』を紹介するブログを読んでいて、個人や個人のあり方を悪魔化するようなことでは何ひとつ解決しないんだって本から学んだ中身を思い出している。
例えばメディアによってデマを書かれてしまったある性加害者となった人の話では、ある人に惹かれるというのはつまり性的な感覚を含むことが前提とされているものだったり、きっとこんな得体の知れないやつなのだという人物像を作り上げられたものだったりする。
でもそれらはわたしらが持つ偏見やそれに基づく恐れや排除しようとする気持ちよって成り立っているものだとも言えるわたしらの問題でもあって、それは『排除の現象学』にも書かれているような、特定の個人やその人に紐づけられる特徴(ここにも権力が作用しているが)にだけ注目し排除することは“犯罪”そのものから目を背ける行為にしかならないと理解しなければらない。構造を問題としない間違いの原点のようなものがこの偏見や排除にあると思う。
あさり/ザ・グレーテスト