香月真理子『欲望のゆくえ 子どもを性の対象とする人たち』を紹介するブログを読んでいて、個人や個人のあり方を悪魔化するようなことでは何ひとつ解決しないんだって本から学んだ中身を思い出している。
例えばメディアによってデマを書かれてしまったある性加害者となった人の話では、ある人に惹かれるというのはつまり性的な感覚を含むことが前提とされているものだったり、きっとこんな得体の知れないやつなのだという人物像を作り上げられたものだったりする。
でもそれらはわたしらが持つ偏見やそれに基づく恐れや排除しようとする気持ちよって成り立っているものだとも言えるわたしらの問題でもあって、それは『排除の現象学』にも書かれているような、特定の個人やその人に紐づけられる特徴(ここにも権力が作用しているが)にだけ注目し排除することは“犯罪”そのものから目を背ける行為にしかならないと理解しなければらない。構造を問題としない間違いの原点のようなものがこの偏見や排除にあると思う。