なぜ特定の属性になった途端に、加害にその集合をまるっと入れようとするんだ。わからない。
誰かの、大きなものの都合で線が引かれて作られた社会がある。その社会は共生を謳いながら、中に入れた者の多くは、線の外側に追いやった者たちに見向きもしない。
その癖、交わろうとすると、まるで「侵略者」がやってきたと言わんばかりに、石や矢を投げつける。属性だけで線を設け、侵略者を仕立てているのはそちら側だというのに。
勝手に被せてきた透明マントを投げ捨てて、線をぐちゃぐちゃに消してやりたい。
「よくわからない」なんて知ったことか。いる。わたしは、すでに、ここにいる。存在それすらも否定されること、拒絶されることが一番しんどい。
死刑の数ある問題の中でも排除という思想については、例えば死刑廃止を訴える中においてもそこまで重点置かれないというかキツく言えばそこは捨てきれないがという意識が見え隠れして、それは終身刑にあたるものを先に導入してから段階的に廃止するという理論があることにも表れていると思うし、そういう排除の思想とか態度とかを温存したままやってきたことが、いままで排除するなっていってた人たちの大勢が排除しまくってる現状と繋がってくる気がしてならん。
てかTwitterで排除すなっていうわたしのツイートにいいねしてリツイートした人の中に排除言説バリバリの人がいるのはなに。
例の橋下徹と東国原がめちゃくちゃなこと言ってる番組って、要はやしきたかじんが昔やってたあれをやってるんよね?よいしょ要因としてのトミーズ雅のおったとこにも同じく吉本タレントだし。って思ってたらそもそもやしきたかじんの力で橋下はメディアデビュー果たしたんだしそういうことなんだな。
少し古めの本だけど浅野健一『犯罪報道の犯罪』とか読むと、マスメディアが警察の広報と化している実態とか、権力によって歪められた人物像をメディアがそのまま拡散したりあるいは通信社からの記事を改ざんしてまで新聞社が偏見や差別にまみれた言説を拡めたり、またそれらをわたしらが無批判にうのみにする形で信じ込まされて、その偏見を基盤にまた偏見をどれほど生み出しているのかがよくわかる。そしてそこには”そのような記事を書かないと出世しない”という話も出てくるように、資本主義による歪みが生み出す差別の問題も当然ある。
さらに、例えば裁判が進んで被告人の訴えが明らかになったきたときには記事も小さくなり、わたしらもそんな事件など既に忘れて平気でいる。“犯罪”や“犯人”と聞いて連想するものって、そのような権力による操作やわたしたちの勝手気ままな態度によって作り出された偏見が大いに影響しているんだよね。
あさり/ザ・グレーテスト