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女だろうが男だろうがセクシュアリティのあれこれに悩む人の身体性も心もわからないやつを持ち上げる自分を疑ったほうがいいということだよ。

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失望はとっくに通り越していたが「女の」といわなくても身体と情緒のつながりがわかりたくないとかではなくわからない人なんだな。そいつが今日もこれからも偉そうなことを語りつるんでるやつはひとりではなにもできないわけだ。そういう構造作りに共謀してる理由は想像つくよね、みんな。あー死にてー、となるよね、そりゃ。

出来事を知らない外側に向けてならなんとでもいえるでしょう。当事者がそれを更なる口封じにしか感じないこともわからないはずがない。なかったことにするためならいくらでもなされる努力といくらでも行使される権力を前に尊厳とかについて考えるのはとても困難。

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今日も自分を守るためにまるでエヴィデンスかのように他人の言葉を使い器用に味方を得ながら絶対に黙らずにいる人たちと同じ世界で生活しているわけです。くじけずにいるほうが無理そうだけどそれでもとりあえず生きていること、ってなるのですよね。つらいつらいと言い続けつつ。

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こういう苦しみに晒されながら死にたい死にたいと願いながらもとりあえず生きざるをえない人たちが期せずしてやっていることって実はすごくたくさんあるから今日はそれを思い出しながらブログを書いた。

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個人の性的な心身を弄んで急に突き放したうえに被害者として発言することができる人はそれが事実はセクハラや犯罪であったと認められない限り、あるいは当事者が相当エネルギーをかけて声をあげつづけない限り(それでも無理か)、主にSNSのおかげで得てきた支持を広げ続けそれに結果的に加担している人たちはそうとは知らないまま連帯し続け傷つけられた個人にとってはそれは巨大な性差別集団でもあるので死ねといわれてるような気にもなりますね。ひどいもんだ。

これだけは絶対にみるという劇団があるのだけど二回連続コロナで上演中止になって(一回は全公演、二度目は部分的に)今回はチケットがとれなかった。平日の夜はいけないからなぁ。でもオペラシティと新国立劇場がオフィスから近いのは本当にラッキー。今年も空き時間にギャラリーみたり舞台も当日券でいけたらいいな。

岡本亜美 さんがブースト

ヨーロッパ中世の写本には、余白にいろいろな生き物が描かれたりしておりますが、そんな余白の生き物たちを主人公にしたゲームが登場しました(開発中の早期アクセスヴァージョン)。

「『Inkulinati』は、ウサギのお尻が犬の剣よりも強い世界を描いた中世の本を舞台とした、インクで描かれたストラテジーゲーム。生きたインクのマスターとなり、自分の動物寓話集を紡ぎ、中世のスターたちを倒してパークを集め、特殊な力を解き放とう。」

まだプレイする時間を作れずにおりますが、とりあえず購入しました。

store.steampowered.com/app/957

こんなひどい目にあうなら最初からセクハラだって騒いでおけばよかった、ってそんな簡単に騒げないって知ってるから手を出すんだしポイ捨てもするしそれでも悪びれずに別の場所で色々施してやってる人としてケアとかフェミニズムの文脈でよさげなこといえちゃってたくさん感謝されたり喜んでもらえたりするのだから人間の社会って怖い。

集団によるあからさまな差別も酷すぎる。同時に治療場面でしかいえない声にならない性的な傷つきは個人のSNSによっても増悪するね。傷つける側はどうして平然と公の場で声をだせるのだろう。つるんでるのは同じような人たちなのだから内輪でお知らせしあってもらえないものだろうか。頭痛、不眠の人を増やさないでほしい。

鴻巣友季子さんが以前ツイートしていた「共感型読書」「自撮り読書」みたいな同類擁護による無意識的異類排除ってTwitterで一番みられる光景のように思う。切り取り上手が共感上手でwin-winみたいな。目的もなく継続的に景色を眺めていろんなことにさらされていく体験としての精神分析と真逆。切り取り共感文化に直接的、二次的、継続的に痛めつけられている人がくるわけだ。なんなのこれ、自分がおかしいの、と怒る気力もなくしてしまった方たちの地獄のような場所から今日も一日。

安東量子『スティーブ&ボニー 砂漠のゲンシリョクムラ・イン・アメリカ』(晶文社)に泣き笑い。
コミュニケーションってほんとどうなるかわからない。原子力のこととなると特に。私たちの小さな運動は失望ばかりだけどこんなこともあるんだ!という希望もくれる一冊。
奪われた日常、再開された日常、ずっと泣いている私たち。広島も福島も。フクシマも福島も。これを読んでいるとなぜだが急に涙が出てしまう。

16章「風邪のスープ」から引用する。
”私をもっとも悩ませていたのは、なぜ自分が泣くのか、その原因が漠として摑めないことだった。嗚咽せずにはおれない衝迫が、堰き止められない強さで内から湧き上がってくるのに、なにがその衝迫をよびおこしているのか、自分では皆目わからない。(中略)私が嗚咽するのは、人間として自然なことなのだ、そう肯定してもらえたようで、そのときも深く安堵したのだった。”

山本貴光さんの推薦の言葉も読み進めるうちに実感された。
著者の冒険ともいえる旅路を多くの人と共にしてあの震災をあの事故をその後の福島を再び語れたらという実現可能なプランをくれる一冊だと思う。
shobunsha.co.jp/?p=7365

読書会&おしゃべり楽しかった。「身体」という言葉をどう位置づけて使っているか確認しないと議論がすれ違うかもなど大事な話ができてよかった。

もう20年以上前の話だけど今だったらASDの診断となる子を集団から庇ったときにその中のボスみたいな子が私を黙らせようといちいち激しく揚げ足取るから「あなたには話していない」と本当のことを言ったらシーンってなってその後は攻撃してこなくなったことがあった。防衛の言葉は脆いけど単なる事実をそのまま伝えるときの言葉って力があるんだと思った。防衛的になってないから静かにはっきりいえるしね。でもなんであの時それができたかというと私は当時発達に困難を抱えている子どもたちに対する周りの態度に猛烈に怒っていて彼らの味方であることになんの躊躇もなかったからだと思う。でも今だったら別の態度を取ったかもしれないなと思うんだ。彼らがそれぞれ何を感じてるかなんて本来私がわかることではなかったのだから。

意地悪ならいくらでもいえるな、と色々頭の中で並べ立てながら駅へ。だって事実をそのままいえばいいだけから。それを意地悪と感じないこころを持ちたいし持ってほしいけど、本当は。

あれにさらに増補版⁉️すごい❗️

『文学問題(F+f)+』
山本貴光
genki-shobou.co.jp/books/978-4

夏目漱石「文学論」(未完)を現代語訳+解説つきで読解したうえで、漱石の発見した文学理論「F+f」つまり認識+情緒という枠組みを用いられる部分は用いながら世界中の文学を読んでみて、さらにその理論が持つ可能性について考えるという本だったと思う。最初は読み慣れなくて苦労したけど一度読むと何度もめくりたくなる本だった。でもさらに「増補」って。これ以上何を増したり補ったりする必要が?いや、きっと著者にはその必要性があるからそうするのでしょう。

ここに出てくる作品にちなんだ方と対談していただきたいな。たまには山本さんが主役で。

twitter.com/genki89476596/stat

大学のときからの友人で編みメーション作家のやたみほさんのかわいい作品がダンストラックになっている!かっこいい。youtube.com/shorts/6uDyQyzQ_1A

もとはこんなほのぼのかわいい作品なんだけど。youtu.be/8ZN3Y9ifPAQ

なんかここに書いたら一句できた。次は内臓のどこかをよみこんだ一句。私は胃腸が弱いのに食べるのをやめられないからいつも痛いのだけど「容量を学ばぬ腸」で57か。あと下5か。こんな俳句ダメか・・・。

岡本亜美 さんがブースト

引き続き『文藝』。小松原織香「〈文学が生まれる場〉にいた話。」よりメモ。

小松原さんは『当事者は嘘をつく』が凄かったですが、この寄稿も凄いですね...。これは冒頭のほうですが、ぜひ最後まで読まれたしです。サブタイトルは「同人作家と「サークル村」の女たちを繋ぐ試み」(森崎和江さんや石牟礼道子さんが出てきます)

〈ケータイ小説にしても、BL同人小説にしても、作品が文芸批評の場に上げられることはほとんどない。むしろ安易で幼稚な作品群としてこき下される。性暴力や中絶、病気や死などを悲劇的に描こうとする陳腐なストーリー。ステロタイプ化された登場人物。病的な依存関係、差別、暴力の容認。そこに批判的精神はない。私はそれらの指摘の全てに頷く。同時に思う。/「私たちには差別や暴力のない日常なんて想像できなかった。対等な関係なんて欲望できなかった」〉

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