たつみこーたろー氏推しの人がいたら申し訳ないんだけど、政治に「スター」は要らない。だけど今の騒ぎを見ていると、みんなたつみ氏をスターにしたいんだろうなと思う。それは山添拓氏なんかに対してもそういう感じがする。いわゆる「スター待望論」みたいな感じ。政治家はスターじゃなくて「公僕」ですよ。
私自身は読書が好きだし、読書は自分を豊かにしてくれていると思う。
けれど、「読書家」は孤独になりやすいし、偏屈になりやすいよね。本を読んでいない/その能力が低い人を、軽々と見下すようになりやすい。大衆蔑視。自分もさほど違わない「大衆」なのにね。
知的階級の人々は、読書して知識を得る前の恵まれた前提には口を噤むことが多い。研究仲間と健康と経済的背景と地位に恵まれながら「孤独」を薦めたりする。自分の下駄を「空気抵抗」のように扱ってしまう。
テキストがメインのSNS(Mastodonもそう)では、知的階級はマイノリティーの代弁をしつつも「強者」なんだよね。
Mastodonは好きな部分も多いけれど、奢った知的階級のひとも多いな、と思っています。
批判するときに「相手の逃げ道をつくる」「顔をつぶさない」ってのは意識したほうがいいと思う。これは相手への思いやりって意味もあるかもしれないけれど、それ以前に、ただでさえ強い攻撃性と取られてしまいがちなトピックにおいては、公衆の面前で完膚なきまでに否定された場合、人は心中を不安が支配してしまい、なかなか自身の態度変更や学習ができないため。
「人権」という言葉が嫌いな人の話を聞いたことがあるけれど、その人はそんな感じだった。→「藤田 わかります。いま、権利の主張の話が出ましたが、人権には闘争的な側面があります。たとえば人権が侵害されている場合は、権力と闘って獲得していくという側面があるんですが、これを日本人は嫌がるんです。だから日本では人権が嫌がられるんだと思います。
日本の道徳教育は、人との調和とか、人に迷惑をかけないことを強調するじゃないですか。そういう教育を受けているから、権利を主張することがネガティブに捉えられがちになる。人権を主張するやつは迷惑をかけている、トラブルメーカーみたいな感じになってしまうんでしょうね。私にも「権利ばっかり振りかざすな」というコメントが来たことがあって、そういうふうに感じるんや……、と驚きました。」【日本人はなぜ「人権」という言葉が苦手なのか – 集英社新書プラス】 https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/interview/fujita_taniguchi/22307
これはそうだと思う。
民主党政権がよく「悪夢」といわれるけど、客観的にみるというほど「悪夢」ではなかったと思う。
かなりの部分が、自民党による政権奪還のためのプロパガンダが激しかったと思われる。
あれで「野党にまかせておけない」という風潮になっていった。
私も当時は載らされていたと思う。
けど、実際取材した人の話からかなり違うということも聞いた。
やはり若い世代に期待したいものだ。
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>自分は民主党政権のときはまだ小学生で、マスコミの反民主党プロパガンダに騙されることはなかったんだよね。
高校生時代から、民主党の時の実績を客観的な視点で分析していくと自民党よりも遥かに実績あるし、良かったんだよね。
まあ、数字を見ないし、理解できないアホウヨにはわからんだろうけど
「トランスジェンダーが女子トイレに押し入ったらどうする」問題、当事者のなかから無理難題を吹っかけるような非常に稀有な人が登場するまでもなく、差別を蔓延させたい側の男性が声高に自分はトランスだぞーと騒ぎながら女子トイレに押し入って騒ぎを起こす可能性の方がはるかに高いと思われますね。
特にカルト団体系の差別主義者は「成りすまし」の常習者ばかりです。「トランスジェンダーはそんなことはしない」と言う反論を覆すため故意に自称トランスとして犯罪に手を染めるくらいのことはするでしょう😅
みんなで「ギャングスタ園芸家」になろう!
私は勇気がなくてまだやってないけど、河川敷や街路樹のための植栽帯で勝手に野菜育ててる人を尊敬してる。
彼の言葉「これは趣味なんかじゃねえ。革命なんだ」は本当に私もそう思う。
野菜を育てることは、お仕着せの流通から少しでも自立するための抵抗運動!
https://courrier.jp/news/archives/208263/#paywall_anchor_208263
ジョナサン・ゴッドシャル『ストーリーが世界を滅ぼす』。三分の一ほど。人間は物語る生き物であり、物語=ストーリーテリングこそが「他人の心に影響を与える唯一にして最強の方法」(17頁)だとする。その場合、陰謀論者の典型をライブRPGゲームの没入者として語るように(23頁)、この本で言われる物語の力は、ゲーム的なものの力にかなり近いように思われる。物語の科学で最も重要な概念は、ナラティブ・トランスポーテーション(物語への没入)だというが(49頁)、藤田直哉氏の近著でも、ゲームの重要な本質は、強力な没入にあるとされていた(ゲーマーとしてのアノン、SNSのゲーム化)。しかし、ゴッドシャルの本は、マクゴニガルのようにゲーミフィケーションを社会改良のために利用するというより、物語の危険性や狂気が強調される。その点はポストトランプ/ポストアノン的か。考えるべきなのは、どうすれば物語によって世界を変えられるか、ではなく、どうすれば物語から世界を救えるかである、と(30頁)。ただし、この本自体が物語的な作法で読者に物語を語る、というメタ的で物語陰謀論的な書かれ方をしていて、ちょっと厄介ではある。
しかし、この軍事費倍増のために税・保険負担を一般市民に背負わせて、その上「パソナ」のように「税金」にたかる「俺たち」の権利を保障する「制度設計」を唱えている連中、昔の時代劇に出てくる「越後屋とその一味」とほとんど同じだなー。情状酌量も余地もまずない。
しかし、現在は地方の「代官所」レベルではなく、「国家機構」全体に「たかろう」とするのだから、「悪」のスケールも大きい。
水戸黄門や「暴れん坊将軍」が登場して「成敗」となれば、スッとするのかも、だが民主主義の世の中ではそれでは逆に困る。
市民それぞれの力の連帯によって「暴政 tyranny」を打倒するしかない。またその過程において日本社会にも民主主義が根付くことになるのです。