「なぜ題詠だと思ったんだろう」と思ったら、前回の資料に「自由詠」と誤記されていたのが記憶の片隅に遺ってしまっていたこともあるけど、一番の原因はふわふわの腹巻をしているから、体中ほくほくして頭にキノコが生えてしまったことだと思うんだよね、僕は。
そういえば…まだ今回の題詠のお題を知らないな……
源氏物語について「世界最古の女性による長編小説の一つ」「きちんとした構想に基づいた小説」という言葉を見かけて…一瞬で「小説の定義とは何か(大説に対する小説の定義でなく、議題として扱うときにどのように定義するのかという問題)」「源氏物語の作者は紫式部だろうか」「源氏物語に〈構想〉なるものが一般性を持った議論に堪えうるだろうか」という問題が浮かんでしまうくらいには、国文学科卒の片鱗はあるのだが、このうち一番世に識られていないのは〈構想〉の問題だろうな。そもそも「初めに書かれた物語は「桐壷」ではない」ということもよく言われていて、「夕顔」などのスピンオフ的な作品の直後の「若紫」から本筋が始まるようなところもあるし、「かかやくひのみや」という巻の存在についても色々言われていて、その構造からみても一律の「構想」を持って書かれたとは考えづらい。あるとしたら、いきあたりばったりの「こういう風にかいてみようかな」という靄のような思いつきであって、物語の終わりが何となく見えている「構想」とは違うように思う。ということを考えると、小説を定義するときに「構想を持って書かれたもの」とするのは、果たして要件にするべきだろうか?書き終わってしまえば〈構造〉は与えられるが、〈構想〉は作者の存在と癒合している。さて……
今、柴田さんと川野さんの対談をチラ見しましたけれど…最近下がり気味だった諸々のモチベーションが甦ってまいりました。私は自分の言語能力への不信が根底にあって、それが逆説的に私を言葉へと導くのですけれど、それでは私は「言葉」というものの何を信じているかというと、たぶん意味とか文法とかリズムとかを引っ括めた総体としての言葉の動きを信じているから、それに惹かれてしまう。そのことに、文學界2023年11月号44頁を5秒眺めて、改めて気づいてしまいました(基本的に面倒臭がりで、直観的にざっくり判断しがちなので…)。
これでまた、言葉で何かが出来るな…!と思ったことは間違いがないのですが、どんなことになるやら、私にも分かりません。それは言葉に聞いてみなければ…。今できることは、この対談をちゃんと読むことだけ。
こちらでこっそり書いておきますけれど、柴田聡子さんとは13年前の今頃知り合いました。美大生の卒業展が住宅街のどまんなかで開かれていて、そこに行ったらたまたま柴田さんが歌っていて、それで話しかけてしまったので。何度となくライブに参りましたけれど、その中で印象的だった言葉があって、私が「歌詞がとてもシンプルだね」みたいなことを言ったら、「だって、こねくりまわしても、嘘にしかならないから」と返事がありました。あれは青山のspiralの地下での会話でしたっけ。凌霄花の蔦のようにグネグネまがる言葉の使い手としての私には、とても新鮮にその感覚を受け止めました。私の芝居を見に来てくれたこともあったくらいの付き合いだったけれど、いつの間にか会わなくなって、でも暫くしてから新聞や雑誌で柴田さんのお顔を見たりするたびに、ああ元気でやっているんだなと、ネットで見ればいつでも見られるのに、なぜか紙媒体でしか柴田さんを見ないようにして、だから私の中で柴田さんは紙媒体の歌い手なのでした。歌い手というか、本当にちゃんと表現をする人なので、「歌い手」というフレームの外にある人ですけれどね。尊敬しています。
そういう人と、川野芽生さんの対談がもうすぐ紙媒体で読めるというので、私はとても楽しみなのです。
オイスターとともに炒められる歌人。