簡単な朗読(動画)ならすぐに作れる技術を、この数ヶ月で獲得してしまったけれど、展望は特にありません。

ここだけの話、きのう締め切りの評やら何やら、すべて今日の夜だけで書いてしまった…

本当にすみません

毎日6時間しか眠れないのが意外とつらい。6時間ねむればスッキリすることもあるから、時間ではなくて質なのだろうと思う。脳がお喋りなので、夢の中でも疲れてしまう。お喋りな脳を黙らせるために、蠟燭の炎でも眺めようか。毎日。

第一期「幻獣たちの短歌教室」、ごちそうさまでした。

今日は片頭痛がやってくる…と思ったら来たので、薬を飲みました。前回飲んだときは、頭が朦朧としましたが、今のところ大丈夫…だけれど、抗炎症薬と比べると…すっきりしません。力を入れると頭痛が出てきそうです。脱力して海月になるしかありませぬのじゃるるばは

「なぜ題詠だと思ったんだろう」と思ったら、前回の資料に「自由詠」と誤記されていたのが記憶の片隅に遺ってしまっていたこともあるけど、一番の原因はふわふわの腹巻をしているから、体中ほくほくして頭にキノコが生えてしまったことだと思うんだよね、僕は。

あまつさえ前回の歌を読み返して「仮名遣いまちがってるのを送ってる」と気づいて落ち込む始末

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そういえば…まだ今回の題詠のお題を知らないな……

先月は1首しか詠まず、それを歌会に提出しました。
今月は1首も詠まず、3ヶ月くらい前に詠んだ中から選んだ歌を歌会に提出しました。
どちらもそれほど苦心せずに詠んだものだけれど、評をいただくと、そんな歌にも「すんなりと解けそうもない輻輳があるのだな」と思えます。
私が苦心の最中にあって短歌を詠むのではなく、苦心を抜けた先に私がいて、その私が短歌を詠んでいる、ということかもしれません。

うんうん、それがいい、そういうことにしよう。

源氏物語について「世界最古の女性による長編小説の一つ」「きちんとした構想に基づいた小説」という言葉を見かけて…一瞬で「小説の定義とは何か(大説に対する小説の定義でなく、議題として扱うときにどのように定義するのかという問題)」「源氏物語の作者は紫式部だろうか」「源氏物語に〈構想〉なるものが一般性を持った議論に堪えうるだろうか」という問題が浮かんでしまうくらいには、国文学科卒の片鱗はあるのだが、このうち一番世に識られていないのは〈構想〉の問題だろうな。そもそも「初めに書かれた物語は「桐壷」ではない」ということもよく言われていて、「夕顔」などのスピンオフ的な作品の直後の「若紫」から本筋が始まるようなところもあるし、「かかやくひのみや」という巻の存在についても色々言われていて、その構造からみても一律の「構想」を持って書かれたとは考えづらい。あるとしたら、いきあたりばったりの「こういう風にかいてみようかな」という靄のような思いつきであって、物語の終わりが何となく見えている「構想」とは違うように思う。ということを考えると、小説を定義するときに「構想を持って書かれたもの」とするのは、果たして要件にするべきだろうか?書き終わってしまえば〈構造〉は与えられるが、〈構想〉は作者の存在と癒合している。さて……

かつて声優になろうとして養成所まで行って、それでも思うのは、(「滑舌が悪い日本語」があるって、すごく豊かなことだよね)なのであって、(「滑舌を良くする」訓練も、その豊かさを目指してやるべきことなのでは?)なのであるから、なるほど私は異端なのだなと思えて安心する。

今日は疲れて帰ってきちゃったけど、明日は本屋いかなきゃ…かわいいピンクの何かになるために

作品づくりがうまく行かないのは、私自身に自信がないという理由が大きいから、私にいい作品を作らせるコツは私を「褒める」ことなんだけれど、下手に褒めても調子に乗ることがあるし、口先だけで褒められたくないから、ややこしくなる。だから、とりあえず「自分から楽しいことを見つけて、やってみる」。これだ、これしかない…。

そろそろ立ち上がろうと自分でも思うのだけど、冬はなかなか気持ちが持ち上がらないし、無理やり持ち上げても仕方ないので、ゆらゆらしながら創作しますね。ふらふら…くにゃくにゃ…もちもち……

実はデータを全消ししてしまった作品の一部を再現して、今日の歌会に出してみていました。「多分あの歌はあんな感じだったな…」と思い出して再構成してみましたが、うまくできなくて、そのまま出してみて評を聞いて、「やっぱりそう思うよね」と思いつつ、なんとなく原型が思い出されてきました。でも…二度と同じものは出来ない気がする。

今、柴田さんと川野さんの対談をチラ見しましたけれど…最近下がり気味だった諸々のモチベーションが甦ってまいりました。私は自分の言語能力への不信が根底にあって、それが逆説的に私を言葉へと導くのですけれど、それでは私は「言葉」というものの何を信じているかというと、たぶん意味とか文法とかリズムとかを引っ括めた総体としての言葉の動きを信じているから、それに惹かれてしまう。そのことに、文學界2023年11月号44頁を5秒眺めて、改めて気づいてしまいました(基本的に面倒臭がりで、直観的にざっくり判断しがちなので…)。
これでまた、言葉で何かが出来るな…!と思ったことは間違いがないのですが、どんなことになるやら、私にも分かりません。それは言葉に聞いてみなければ…。今できることは、この対談をちゃんと読むことだけ。

こちらでこっそり書いておきますけれど、柴田聡子さんとは13年前の今頃知り合いました。美大生の卒業展が住宅街のどまんなかで開かれていて、そこに行ったらたまたま柴田さんが歌っていて、それで話しかけてしまったので。何度となくライブに参りましたけれど、その中で印象的だった言葉があって、私が「歌詞がとてもシンプルだね」みたいなことを言ったら、「だって、こねくりまわしても、嘘にしかならないから」と返事がありました。あれは青山のspiralの地下での会話でしたっけ。凌霄花の蔦のようにグネグネまがる言葉の使い手としての私には、とても新鮮にその感覚を受け止めました。私の芝居を見に来てくれたこともあったくらいの付き合いだったけれど、いつの間にか会わなくなって、でも暫くしてから新聞や雑誌で柴田さんのお顔を見たりするたびに、ああ元気でやっているんだなと、ネットで見ればいつでも見られるのに、なぜか紙媒体でしか柴田さんを見ないようにして、だから私の中で柴田さんは紙媒体の歌い手なのでした。歌い手というか、本当にちゃんと表現をする人なので、「歌い手」というフレームの外にある人ですけれどね。尊敬しています。
そういう人と、川野芽生さんの対談がもうすぐ紙媒体で読めるというので、私はとても楽しみなのです。

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