トランス差別的なKADOKAWA本→産経本の出版に関して、いわゆる左派でも「読むまで差別的とは断定できない」「言論の自由は守られるべき」みたいな論調の人が沢山いてうんざりしちゃう。で、そういうこと言う左派はだいたいシスへテ男性なんよね….フゥーン
書店がヘイト本を置いたり、出版社がヘイト本を出すことに少しずつ疑問の声が上がり始めてきたのに、未だに傲慢な両論併記の感覚でいるというかさ。嫌になっちゃうね。
なにも出版だけが言論の場ではないし、差別元説を「言論」に含めていいのか、SNSへの投稿すら不適切と思われる内容を出版することがどんな意味を持つのか、それぞれのレイヤーをちゃんと切り分けて考えるべきだよ。大雑把にゲンロンノジユーでまとめないで欲しい。
出版を制限するのではなく読んで内容がおかしければ批判すればいい、という姿勢を差別言論にまで適用してきた結果どうなったのか、さんざん見てきたじゃん。学ぼうよ。
20年ほど前、パリで写真を撮っていて、真夜中になる少し前に宿に戻ろうと三脚を担いで足早に歩いていたときに、アメリカ人観光客の若い女性数人組に道を尋ねられたことを今唐突に思い出したのだが、他にも通行人はいたのに何故パリで東洋人に道を訊こうと思ったのだろう。
関西弁話者として「知らんけど」をめぐる議論で少し気になることがある。確かに含意としては、確定的な根拠の無さや責任の回避があるといえるのだが、用法としては対話相手を突き放しているのではなく、むしろ分からなさ・不確定さを共有したい感情がある。
「知らんけど」で話が終わるのではなく、その後に相手から「何や、自分も[=あなたも]知らんのかいな!笑」とツッコませるところ(実際にそう言うかどうかは別として)までがセットだと思うのだが、その部分を欠いたところで議論されていることが多いので、ニュアンスが伝わりにくいのではないかと感じる。
「知らんけど」は、「ツッコミ待ちのボケ」の状態、言語学では conative の機能(相手の反応を引き出すための働きかけ機能。動能機能ともいう)として理解するのが適切ではないかと思うのだかどうだろう。
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