サポーティヴなセラピーというものは、表向きは外界操作能力の向上を目指しながら、その道程が同時に自己観察力や自己内対話能力の向上にもつながっているときに、もっとも質の良いものになるのだろうと思ったのだよなあ。

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面接で「問題への対処法をこしらえる」ときには、最初はなるべくその人の思考基準、価値判断に沿った形で(それらの延長線上にあるものを)こしらえた方がサポーティヴだと思うんだね。
例えば「知人やら信頼してた人に裏切られて人間不信になった」というときには、その人の「人間を不信に思う能力」を活用して、それを「どの人ならばある程度信頼できて、どのような人達には心許さないでおくかを判別する(アセスメントする)能力」へとバージョンアップできる方法を模索していくと良いと思うんだね。
その際には「人間不信に至った体験」が一定数あるわけだから、そのときの体験をヒントにする。過去の対人関係をもう一度セラピストと洗い直して「こういう特性をこちらが察知したら、相手はどうも怪しいやつのように思いますな」みたいことを検討する。
そうやって過去の体験を素材にあれこれ考えると何が良いかというと、そのなかで他者に対する観察力だけでなく、自分に対する観察眼も細やかになるんだね。「相手が唐突に私を排除しようとしてきたときに、そういや私もその人のことをちょっと嫌だなと思いはじめていて、でも“この人は信頼できる”と思い込もうとしていて、、、ちょっと嫌だなと感じていたのは◯◯という理由があって、、、」みたい自分に対する描写が細やかになる。

SCの研修会では心理教育花盛りで「いかに子ども達にSOSを出してもらうか」一辺倒の感があるが、子どもがSOSを出すにはその受け取り先がなければ成立しない。つまり、保護者や教師がSOSの受け取り先になる、もしくはそれを察知できるようになる心理教育を同時に進める必要がある。

子ども側からの発信のみを強調することは下手をすれば「SOSを出せる人が正しく、出せない人が悪い」というメッセージにもなりかねない(現に研修では「SOSを出せない子ども達が◯%おり、、、ゆえにもっと出せるようにしよう」みたいな話になっていた)。SOSが出せないならば、その出せない事情を大人側が鑑みる必要があるだろう。そして、出せない子にも支援を供給できねばならない。

さらにいえば、この種の心理教育はSCがやることなのだろうか、という問いもある。黎明期はそうであっても、最終的には教師がそれを授業に組み込めるようになった方がよいだろうと思う。
説得力が全然違うと思う。

もうひとつ、連携という介入法を用いるうえで大切なことは、連携した後に予測される結果についてユーザーと十分に検討することだと思う。
裏を返せば、ユーザーに内密に連携することは、治療プロセスにひとつの枷やハンデを作り出すことを覚悟したうえで行う必要があると思う。

連携するときには、どんな情報や理解を共有するとユーザーの益になるのかということだけでなく、その連携先もしくは連携相手の内的準拠枠に関する理解(アセスメント)も重要で、いま伝えていることが相手にどう伝わり、どう理解されていく可能性が高いかもたえず考えねばならない。

Twitterのときみたいに、思いついた臨床的アイデアをつぶやく場にしよう。

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