〈7月後半の注目本・予約受付中〉
ヴァージニア・ウルフ『月曜か火曜』(エトセトラブックス)
ウルフの最初の短編集を、1921年刊行当時のまま、姉ヴァネッサ・ベルの版画5点とともに完全収録。最良のガイドとなる、翻訳者の片山亜紀による詳細な注・訳者解説付。
https://books-lighthouse.stores.jp/items/667552fdf90f2015b9561c32
〈7月後半の注目本・予約受付中〉
岡真理・小山哲・藤原辰史『中学生から知りたいパレスチナのこと』(ミシマ社)
あらゆる人が戦争と自分を結びつけ、歴史に出会い直すために。アラブ、ポーランド、ドイツを専門とする三人の対話から はじめて浮かび上がる「パレスチナ問題」。
https://books-lighthouse.stores.jp/items/667403cf62289b01214aa70e
5/18に向けて「言論のアリーナ論」が不十分である理由を不定期に書き連ねていきます。当日どういう話をするかという自分のための整理と、当日会場に来れない&音声アーカイブを買う余裕のない方にも私がなにを話した(いと思った)のかがわかるようにするためです。そもそも、言論のアリーナ論について肯定的に語る言説自体が、マイノリティにとっては「刃」である場合もありますらね。この対談イベントを聴きに来れるということ自体が、「気にせずに済む者」である証なのだということ。
〈募集〉
「言論のアリーナ」的な書店(もしくはそれ以下のただの無頓着書店)に行ったときにどのような気持ちになるか、あるいはなぜそのような場所には行けないのか。もしくは、書店店頭にかぎらず、差別がいたるところに存在する社会において生活をしなくてはならない、そのことがもたらす各種の苦痛や実害。
みなさんの声はイベント時に共有できればいいな......と思っています。マイノリティとしての地位を規範や社会環境から押し付けられてしまっている者がどのような生を強いられているのか、業界人の多くは知らないので。
要領をえない文章でも大丈夫です。返信やbooks.lighthouse@gmail.comまで。もちろん匿名でOKです。
言論のアリーナにしていれば、自ずと正しい意見=差別ではない言説が選び取られるはずだ。という認識は、あまりにも我々の「認識能力」を過信している。これは「知性の有無」の問題ではなく、認識能力の問題であり、認識能力は「興味関心のないもの」に対しては無意識のうちに低下する。言論のアリーナを構築するのならば、それを前提としなければならない。
また、我々は想像以上に見ていないし読んでもいない。お店の外に「CLOSE」「営業時間外」という看板を出していても入店してくる者はたくさんいるし、「関口竜平(せきぐちりょうへい)」とふりがなを振っても「りゅうへい」と読む者がたくさんいる。我々人間の認識能力を過信してはならない。これはその者の知性を見くびっているわけではない。
我々はみな、想像以上に「見ていない」し「読んでいない」し、知らないことのほうが圧倒的に多い。大谷翔平が野球選手であることを知らない者もいるし、それは知っていても日本での所属球団が千葉ロッテマリーンズであったことを知らない者は多い。大谷翔平でさえこのレベルなのだから、たとえばトランスジェンダーについて存在(概念)自体知らない者だってたくさんいる。むしろ多数派であろう。なお、大谷翔平の日本での所属球団は千葉ロッテマリーンズではなく北海道日本ハムファイターズだが、私がいまここで誤りを正さなければ「マリーンズである」と認識したままの者が生じたはずである。我々は、興味関心のない物事について得た情報はテキトーに認識するし、自主的に情報をアップデートすることもない。
ゆえに、マリーンズのユニフォームを着た大谷が表紙になっている雑誌とファイターズのユニを着たそれが隣に並んでいても、どちらを「正しい大谷翔平」と認識するかはその者次第であり、マリーンズの大谷を正しいとする者が現れることを防ぐことはできない。
現状、チェーン書店の現場で展開されている「アリーナ」は、
・福嶋のアリーナ論を知っているがゆえにそれを目指してはいるが、自らが「気にせずに済む者」であることに無自覚なまま作られる、実際には「悪意のあるヘイトスピーチという無敵の言論vs問答無用で引きずりあげられた丸腰のマイノリティ当事者」というアリーナ。
・福嶋のアリーナ論も知らないし、その本がヘイト本であることも気がつけない(ほどに各種余裕のない生活を送っている)書店員によって作られる、単なる無造作なアリーナ(当然そこでもマイノリティが丸腰のまま引きずりあげられている)。
であり、いずれにせよ福嶋が理想としているであろうアリーナと、そこから導き出される(ことを期待している)結果は得られていない。
言論のアリーナ=民主主義の場を成立させるには、その前提条件として「その場に誰もがいられる」環境=セーファースペースを作る必要がある(実際にはそんな環境は成立不可能ではあるが、だからこそそれを目指さなければならない)。言論空間に参加することができない者がいる以上、そこは言論のアリーナではない。
しかし、福嶋の言論のアリーナ論を知っている者の多くは、高価な人文書を買えたりそれを読んで理解ができるだけの能力がある者に限られている。いわば我々は知的特権を享受できる強者であり、そんな強者からは「認識できていない」世界に生きている者、生きることを強いられている者がいることを、我々は認識しなくてはならない。我々が「十分に安全だ」と思っているアリーナは、かれらにとっては決して安全ではない(が、「気にせずに済む者」である我々はそれに気がつけない)。
反差別の実践を「気にせずに済む者」の知的遊戯にしてはならない。言論のアリーナ論を肯定的に捉える者は、まず自らが「気にせずに済む者」であることを認識する必要がある。
言論のアリーナで「言論」どうしを闘わせているつもりかもしれないが、注釈をつけたり安全対策を施すなどの、シーソーの傾きをならす無数のパラメータ調整をしないままヘイトスピーチを闘技場にあげてしまうことはあってはならない。なぜならヘイトスピーチは、マイノリティ当事者を問答無用で闘技場に引きずり上げるため、言論という概念どうしを闘わせているつもりでも、実際には「悪意の塊としての言論vs丸腰の当事者」という状況を作り出すことになる。
その様子を観客席という安全地帯から観ていることを「反差別の実践」と呼ぶことはできない。それは反差別の「実践」ではなく「論評」であり、冷静に状況を分析する自分という知的遊戯に酔いしれているだけである。
そもそも「言論のアリーナ論」というものの存在を知っているチェーン書店員がどれだけいるのか。低賃金で働かされている者が人文書(基本的に高価)を読む余裕があるのか。さらにそもそも、その本に書かれていることが差別言説であることに気がつけるチェーン書店員がどれだけいるのか。チェーン書店の現場を回しているのはパートやアルバイトの非正規労働者である場合が多い。当然、かれらの「知」が足りないのをかれらの努力不足のせい(だけ)にしてはならない。そのうえで、書店現場の実際は、「それが腐ったキャベツであることを見抜けない店員」によって「無造作に置かれている」というものであり、それは決して福嶋の考えるアリーナではないはず。つまり、「ヘイト本を認識したうえで闘わせる」という福嶋のアリーナ論を実践できている書店など、極少数である。
20↑ 日々のこと、たまに本や音楽のこと
she/her トランス差別に反対します