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もう一つ感じたことは、相手に反論する、つまり、相手に「わかってもらおう」と思い行動することはむしろ事態を悪化させるということだな。相手はこちらのことを理解する気なんて最初から微塵もないのだから。しかし、そのことをわかったうえでなお「わかってもらおう」という動きをしなければならない時もあるのだから、これが不当なことでなくてなんなのか。passすることはたいへんだなとつくづく思う

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こういう言い方をすると勘違いされるのだが、何も対立を避けろと言いたいわけではない。パレスチナへの不当な攻撃に対する抗議をはじめ、対立すべき時は対立すべきだ。言いたいことは、対立が不要な場合は積極的に対立するな、妥協が必要な場合は妥協すべきでそれは敗北でもなんでもなくその選択をした自分を責めるな、ということだ。似たようなことを前にブログで書いたかもしれないが、改めて一連のことを文章化した方がいいのかもしれない

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相手を不快にさせず気持ちよくさせながらこちらの目的を遂行するという強かさ。これができる社会運動家は確かに少ない。そりゃあ資本主義に勝てないわけだよ...

自分の意見を通すことが目的化している人間は、相手の意見を少しでも認めることを「敗北」と思いこれを恥だと考える。意見を述べることはコミュニケーションの一環であるはずだが、ある目的のために意見を述べるのではなく、自分の意見を通すことがその目的を達成するための条件であると勘違いしている人間は一定数存在する。だから意見が通る通らないを勝ち負けや競争と同一化してしまう。そのような人間は、自分の意見が通った、すなわち、相手を蹴散らして自分が認められたと感じることで初めて心に余裕が生まれ、自分の優位性が脅かされない範囲において相手の意見を受け入れる。これは本当に尊大としか言いようがないが、しかし、組織をつくる立場、組織を運営する立場に立つ者は、そのような人間もうまく扱う(というよりあしらう)技能が求められる。組織には、対等なコミュニケーションをどう築くべきかということと、どうしようもない人間をどうあしらうか(相手を気持ちよくさせながらうまくこちらの目的のために行動させるか。このとき、この人間は組織の目的を理解し共有する必要はない)ということを同時に考えねばならないのだろうと思う。

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これはどこにでもいる、もちろん教育現場や職場に限らず社会運動家やフェミニストにも当てはまるのだが、自分の思っていることをしゃべるだけしゃべっておいて相手には反論の機会を与えず、少しでも相手が意見を言おうものなら人格否定を厭わない、つまり、自分が満足するまで私見を垂れ流していながら相手の意見を一切聞かない人というのはやはり少なくないなと改めて思う。そういう人に限って、ずっと反論してると相手が止まらないから一旦折れようと妥協する姿勢をみせた途端、自分の意見がまるっとすべて受け入れられたと勘違いし尊大な態度をとる。ここで重要なポイントは、そんな尊大な態度をとった時に初めて相手の意見を理解する、というなんとも尊大であるがしかし人間ってそんなもんだよなという事実である。

男性研究者はフェミニストの承認を得て初めて意見を述べることを許される、というような高踏的態度を批判せずに追随する限り、何も先へは進まない。

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藤田真文さんが主催するワークショップについて。こういう関心の持ち方から遠く離れてしまった
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本当はフェミニズムで扱われるような典型的テーマについて考えていたかったのに、なぜわたしは、他者と対等な関係を築くためにどのようなコミュニケーションが必要なのかという、ともすれば左翼やフェミニストが軽く扱うような、ともすればそんなことを考えること自体が嘲笑されかねないようなことを真剣に考えているのだろうか。

自分の言動が差別に関わっていなければOK!と処理してしまうのは、考えるべき順番が転倒してはいないか、と思う

あなたのことに関心がありませんと言われたら、ああそうですか...まあ仕方ないか、となるか、え〜もっと関心持ってよ〜🥺となるかのいずれかが多いと思うが、そこに「関心がないのは加害です!」という第3項がいきなりきたら、いやいや、ちょっと待ってくれよ、とならないだろうか。そういう入り方で始めて、その後のコミュニケーションはどう回収するのか。話の始め方次第では連帯の萌芽もあったかもしれないのに、その可能性を自分から先回りして潰すのか。君たちもっと他者との関係性をつくることにそれこそもっと関心を持ったらいかがか。そもそもフェミニズムとは関係性の思想ではなかったのか、といろいろ言い始めたらきりがないな。

で、何が言いたいのかというと、ある特定の属性に関する事柄のみを重大に扱うべきものとしたうえで、本人の属性に直接関わらない事項、例えば、所属先や本人の趣味嗜好などが社会で認知されている差別と直接関わらないのであれば、属性に関する事項より軽く扱ってよい、と線引きするのはおかしくないですか、ということ。差別に関わるかどうかではなく、本人がどう扱われたいか、自分には興味がない事柄であっても相手は違うかもしれないのだからいかなる事項であれ対等に扱うべきではないですか、ということ。

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>「大谷翔平の所属球団を間違えることは悪意からではないし、私の名前を読み間違えるのも知性のなさからではない。単に興味がないだけ、あるいは単純な認識ミスである。これらのミスはたいしたことではないが、マイノリティに関する誤った知識を「事実として認識する」ことになり、それをそのまま他者のいる場=社会において拡散した場合、それはその者に悪意がなくとも加害になる。」

いや、加害とまでいかなくても大谷も悲しいだろう、と思うわたしは優しすぎるだろうか

結局のところ、同意してよかったかどうかなんて結果からしかわからないのではないか。同意というのは相手とのコミュニケーションにどこまで妥協できるかどうかでしかないのだから。

同意したという次元と、その同意に納得しているかという次元がある。まあ仕方ないか、と自分のなかで整理できるかどうか。いや、やっぱりあれはおかしかった、納得できない、と同意を撤回するかどうか。それこそ携帯の契約に喩えたらわかりやすいか?

大事なのは同意した内容に自分が納得しているかどうか、ということではないかと思いますよ

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threadsやblueskyまでSNSフェミニズムの動向を追うべきか否か...

なお、「男版ヒムパシーがあって女版ハーパシーがある」という話もしていない。そもそも正しい発音が「ハーパシー」なのか「ヘルパシー」なのかすら把握してない

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ここのところずっと思っているのだが、左翼にとって「よきサマリア人の法」みたいな考え方は受け入れ難いのだろうか

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