自分の意見を通すことが目的化している人間は、相手の意見を少しでも認めることを「敗北」と思いこれを恥だと考える。意見を述べることはコミュニケーションの一環であるはずだが、ある目的のために意見を述べるのではなく、自分の意見を通すことがその目的を達成するための条件であると勘違いしている人間は一定数存在する。だから意見が通る通らないを勝ち負けや競争と同一化してしまう。そのような人間は、自分の意見が通った、すなわち、相手を蹴散らして自分が認められたと感じることで初めて心に余裕が生まれ、自分の優位性が脅かされない範囲において相手の意見を受け入れる。これは本当に尊大としか言いようがないが、しかし、組織をつくる立場、組織を運営する立場に立つ者は、そのような人間もうまく扱う(というよりあしらう)技能が求められる。組織には、対等なコミュニケーションをどう築くべきかということと、どうしようもない人間をどうあしらうか(相手を気持ちよくさせながらうまくこちらの目的のために行動させるか。このとき、この人間は組織の目的を理解し共有する必要はない)ということを同時に考えねばならないのだろうと思う。
もう一つ感じたことは、相手に反論する、つまり、相手に「わかってもらおう」と思い行動することはむしろ事態を悪化させるということだな。相手はこちらのことを理解する気なんて最初から微塵もないのだから。しかし、そのことをわかったうえでなお「わかってもらおう」という動きをしなければならない時もあるのだから、これが不当なことでなくてなんなのか。passすることはたいへんだなとつくづく思う