などと記す。経済を福祉や環境保護にバランスよく回そうという発想は、社会主義的であるとして嫌っているようだ。
"民生用原子力の大規模な配備を阻止する"「予防原則」もアンドリーセンの考えでは「敵」だ。科学に無知な市民など無視してガンガン原子炉を作れ、事故っても仕方ない、人類の進化のためだ——という訳ですな。
最後に「守護聖人」たちの名前を挙げている。ニーチェ、ミルトン・フリードマンと並んで「暗黒啓蒙」のニック・ランド、「シンギュラリティは近い」のレイ・カーツワイルの名前も。
この文章は「テクノオプティミズム(技術楽観主義)」を主張するものだが、その内容は加速主義、あるいは新反動主義とだいたい同じ。私は、短く分かりやすいという意味で「新反動主義」をよく使っている。
ところで、私は最近ハイデガーの技術論を読み返しているのだが、そこでは「原子力のような巨大技術は人間の思考を技術の進化・普及・経済合理性追求の方向に強制する。現代の私たちは、じっくり思考できなくなっている(大意)」という問題意識が語られる。
『「自分たちが一番うまく未来を作れる。だから、規制だ税金だ社会的責任だなどと言わず、好きなように未来を作らせろ。足を引っ張るな」と言いたいのだ。』
複雑な問題を考えることを放棄して、成長の敵とレッテルを貼りまくる人は、万能感は持っているかもしれないですが、論理的思考も問題解決も行えない(放棄している)ですよね。
AIなどの先端技術を通して、何か見えた(欲望が底上げされた)かもしれないですが、「見えるほど出来ない」のは問題解決を投げた本人の責任であり、社会に責任転嫁している時点で、幼稚だと思います。
背景まで丁寧に感謝します。
クレヨンしんちゃんを見せて、二番煎じだと言ってあげたいです。マスク氏にも。
義務を果たさず権利を行使したい!
という誘惑は理解しますが、大人なら品位を保って欲しいです。
ハイデガーの指摘を引き継ぎ、大陸の(主にドイツ、フランスの)哲学者らは、科学技術時代の新しい哲学を模索している。巨大科学を前に、どのように自由に思考するか。巨大科学に由来する破局の可能性を、どのように考えればよいのか。私たちは未来の世代にどのような責任を負っているのか。こうした思考が哲学・倫理の最前線だ。個人的には、ナチスの迫害を逃れアメリカに渡り活動を続けたハンス・ヨナス、それにフランスのデュピュイの思想に注目している。
比べるのもよくないと思いながらも、アメリカのテック界隈が好む新反動主義はあまりにも軽薄だ。過去の偉大な哲学者らの思索の成果への「故意の無知」がそこにはある。人間のありようや尊厳への思考(実在)はそこにはなく、人の義務、責任をスルー。目的(人のよりよい生)と手段(技術進化と経済成長)を取り違えたまま、ただ経済を回せとハッパをかける。
新反動主義は米国の巨大テック企業の経営者らに浸透しており、今や世の中への害悪が大きくなっている。アンドリーセンのケンカ腰の背後には、欧州、米国での巨大テック企業への規制強化がある。
いまや米国テック界隈のメインストリームは新反動主義という思想的な袋小路に入りこみ、社会に向き合い責任を果たそうとしない。X/Twitterの惨状もその先触れの一つだ。