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「タイ社会では、母方と父方の双方の家系が重視される。伝統的には、結婚後に夫婦で新しい家庭を作るか、夫が妻の家族と同居することが多い…したがって、タイの人々の生活では通常、母方の親戚とのつながりが深く、関係も強くなる。…
 タイの家名は、家名法の公布と、男性と父系中心の『同一家名を使用できる範囲を示す図』の告示を通じて、タイの血統制度を再編成した結果として生まれた。図は、家計の継承意識の推進だけでなく、父系の家族構造のイメージを提示するために作成されており、そこでは母方の親族や結婚を通じて親族に加わる者は無視されている。これはまるで、血統における女性の役割を完全に無視するかのようだ。さらに、家名を使用できるのは父系の家族に限るとする規定により、家名は父から子への特別な遺産へと変化した。息子が成長し父親になると、その息子にこの財産が譲られ、そのサイクルが続けられる。父系相続のモデル構築は、母方の親族の役割に抵抗し、血統から女性を排除した。これは法律に従って家名を公式に登録することによって正当化された」384頁

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「タイの人々が家名(ナームサクン…)を使用し始め、西欧人と同じように名前の後に家名をつけるという命名方法が確立したのは、ラーマ6世(ワチラーウット…1910〜1925)の治世である。それ以前は、互いを名前だけでよび合っていた。同じ名前の人が複数いるなどの理由で、さらに区別が必要な場合には、両親や出身地などに関する情報を名前に加えた。この呼称方法は、会話でのみ使用されたようである。公文書には、名前と称号(称号がある場合)のみが記載されていた」359頁

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Thanai Charoenkul. (2004) “Kamnoet ‘namsakun’ kab botbat phupokkhrong khong ratchakan thi 6,” Ratthasatsan, 25 (1), pp. 199-253.
=佐藤綾子・白石華子・落合恵美子訳「『家名(ナームサクン)』の起源と君主としてのラーマ6世の役割」、359-92頁

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「高麗王朝の時代には、夫が死ぬとその妻は自由に再婚できた。中国の宋王朝から高麗への使者によって編まれた『高麗圖經』には、高麗の男女は、好きなように結婚し、離婚できたと書かれている。
 朝鮮王朝の初期には、再婚だけでなく、さらに再々婚する女性も珍しくなかった。当時は、女性の再婚は不自然でも不道徳でもなかった。しかし、時代が進むにつれて、国家ー男性は、着々と社会の認識を変えていった。再婚や再々婚は不道徳とみなされるようになり、やがてこうした否定的な認識が制度化された。朝鮮の法典である『經國大典』は、こうした行為に制裁措置を定めており、両班階級の再婚女性の連れ子が公職に就こうとする際は、不利な立場におかれるとされている」348頁

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「高麗王朝の時代は、社会全体を通して家父長の権力が確立されていたわけではなかった。婚姻の慣習を取り上げてみても、結婚後は、夫が妻の家に移り住むのが一般的であった。夫婦が妻の家族と同居しているときに生まれた子どもは、母方の親族とより密接な関係をもった。こうした家族制度のもとでは、男性の絶対的権力を確立することは不可能であった」347頁

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姜明官(カン・ミョングァン)(2009)『烈女の誕生——家父長制と朝鮮の女性の残酷な歴史』、539-50頁
=佐藤綾子・小林和美訳「烈女の誕生」、347-58頁

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「<ふたつの『家』確立論>
 これまでの家変動論では、『家』は上から下へ、中央から周辺へ広がったと単線的図式で理解されてきた。農民社会に限って見ると、18世紀に入り新田開発が勢いを失うと、分割相続のための新しい土地が確保できなくなり、単独相続を行う『家』が確立したとのメカニズムが提示され、それが一般的パターンであると考えられてきた。この仮説は先進地域である近畿の事例から提示されたものであり、後進地域である東北地方では半世紀遅れて同じパターンが生じていると考えられてきた。
 しかし…東北型の『家』確立メカニズムの特徴は、田畑に対して人口が不足したことへの対応にあるが、近畿型では、分割すべき土地がなくなったこと、人に対して土地が不足したことが強調されており、両者のプロセスは全く逆である。
 したがって、農民における『家』の確立パターンは、少なくとも2つのパターンを想定する必要がある。ひとつは近畿でみられた『土地不足型』であり、もうひとつは東北で見られた『人口減少型』である」324頁

人口過少(土地過剰)でも人口過剰(土地過少)でも「家」が確立するというのは、ロジカルにはにわかに納得しかねる主張

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「18世紀後半は飢饉の続発により人口減少が著しく、それによる労働力の不足から田畑は荒廃し、村全体が危機に陥っていた。近世村落は徴税方式が村請制であったため、村落の危機は個々の世帯、個々人の危機へと直結した。その中で危機に直面した人々は何らかの戦略をたてたのではないか。その具体化の1つが安定した世帯、強固な世帯の追求だったのではないか。すなわち、危機に対する人々の『生存戦略』として『家』が確立したというのが、本研究がたどり着いた仮説である」323頁

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「もともと『家』的特質は公家社会で誕生し、やがて武家社会に広がり、それが上層農民へ、さらに経済的・文化的先進地域(近畿地方)で庶民に一般化し、最後に後進地域(東北地方など)にまで広がったと考えられてきた。『上から下へ』『中央から周辺へ』と単線的発展図式で理解されてきたことになる。
 …これまで『家』が確立する前提条件として重視されてきたのは、市場経済の進展と小農自立の2点であり、それらがおよそ半世紀のタイムラグはあるものの全国的に生じていたことから、『家』も同じメカニズムで確立したと考えられてきた。だが、『家』の確立メカニズムを考える際には…新田開発と人口変動も重要な要素である。新田開発が完了しなければ分割相続の可能性は続くわけであり、たとえ新田開発が終了したとしても人口が減少すれば単独相続というルールを確立する必要はないからである」315-6頁

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「それでは、この時登場した小農は『家』を確立させていたのか。この時期の世帯は自立性が高まり、均質的な単婚小家族になったが、まだ『家』的特質を備えるまでには至っていなかった。概ね子供の内の1人が生家に留まり親と同居するというルールはあったが、大規模な新田開発が進んでいる時期であり、財産は子供の間で均分相続されることが一般的とされていた…
 しかし、いつまでも新田開発が続くわけではなく、17世紀の末には大開墾時代も終わりを迎え、それと連動して分割相続が困難になる。分割相続から単独相続への移行には、分地制限令など法による『上からの統制』もあったが、その影響というよりはむしろ、経済的理由、経営体として世帯を維持する必要から相続形態に変化が生じた。また単独相続への移行期は、村において家格制が定着してくる時期であり、家名の維持が意味を持つものとなる。すなわち、経済状況(新田開発の終焉)が分割相続の可能性を希薄ならしめただけでなく、村落構造の変化のなかで家のステイタスを維持することが重要になり、〈家産観念〉が発達し、単独相続が普及した…
 つまり、小農自立の後、(それを前提として)18世紀初頭に『家』が確立した。これが農村における家変動論についてのもっとも実証的で説得的な仮説である」315頁

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「農民の場合、まず議論されてきたのが17世紀後半から18世紀初頭にかけて登場した『小農自立』であり、経済史的視点から世帯およびライフコースの特質に大変革が生じたことが明らかにされてきた…変革前の世帯は従属農民や傍系親族を包摂する中世的大家族であったが、小農の自立により従属農民や傍系親族が独立し、世帯規模が比較的小さく、均質化し、単婚小家族的な世帯が広がった。この世帯の変革は、未婚の隷属民が主人の世帯から独立し結婚することでもあり、未婚率が低下し、結果として全体の出生率が上昇し、人口増大をもたらした…16・17世紀は大規模な新田開発、市場経済の進展、さらには幕藩体制の確立、石高原理に基づいた家・村支配が開始されるなど、政治的大変革期であり、それらの複合的な影響を受け世帯の特質が変化したと考えられてきた」314-5頁

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「そもそも家は12世紀後半の貴族社会で誕生した。律令制度の解体期である11世紀後半、政治構造が変化するなかで特定の身分と職能を備えた官職が貴族のなかで世襲化することに端を発し家が誕生した。それが14世紀から16世紀にかけて武家社会のなかで完成する。公家の家では職能とそれにともなう官職の相続が中心をなしていたが、武士が在家領主となった鎌倉時代に家業としての職能に加えて所領という家産が登場し、公家の家よりもさらに『家』らしい家が形成された。そして南北朝以降、惣領制的な相続形態から長子単独相続への変化が生じ、より完成された『家』へと発展した」314頁

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「社会学的家研究は、家の本質を生活保障の場としての経営体と見なす『経営体としての家論』(有賀…)、超世代的に連続する直系家族と位置づける『直系家族としての家論』(鈴木…)、普遍的概念である家長的家族とみる『家長的家族としての家論』(戸田…喜多野…)に大別される。従来の理解では、これらの説の相違点ばかりが強調されてきたが、意外にも基本的に認識では共通点が多い。
 第1の共通認識は、<家業と家産の維持>を伴うものを家と捉えている点である。…第2には直系親族または嫡子により<一子相続>される点である。…第3はこれらの特質を持つ家は世帯構造の点から見ると直系家族になると捉えたことである。
 さらに上記の特質を持つことの大前提として家は<永続的に存在するもの>とみなされてきた。…
 つまり、①世代を超えて永続すること、②家業・家産を維持すること、③相続は一子相続であること、④世帯は直系家族構造をもつこと、これらの特質を備えた世帯が家と考えられてきた」313-4頁

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平井晶子(2003)「近世東北農村における『家』の確立——歴史人口学的分析」、『ソシオロジ』47(3)、3-18頁

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「女性が婚家からよそ者として扱われることが問題とされるが、近世前期の女性は婚家においては生家の財産や先祖祭祀を継承するよそ者であった。夫婦もおのおのの生家に帰属していたので、帰属からみれば赤の他人であった。帰属において赤の他人である夫婦をつなぐのは、日常生活における協同と夫婦の財産や先祖祭祀を継承することを期待される子どもの存在であったといえる。『子はかすがい』ということわざは、喧嘩ばかりしている夫婦が子どもによって縁がつなぎとめられるという意味で使われるが、近世前期において帰属が異なる夫婦をつなぐものは子どもであったといえる」311頁

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「近世前期の嫁は、生家の財産を継承することを前提として生家の檀那寺を婚家に持ち込んでいた。嫁は財産に付随した先祖祭祀を主体的に担うことを期待されていたといえよう。さらに嫁が持ち込んだ檀那寺は子どもに継承され、先祖祭祀も子どもに継承された。しかし、一家一寺が浸透するなかで、嫁の持ち込んだ檀那寺は子どもに継承されなくなり、続いて嫁が持ち込んだ檀那寺も婚家の檀那寺に変更される。
 持ち込み半檀家から一家一寺への転換において、他家に嫁いだ女性が生家の檀那寺を持ち込むことは否定された。そのことは、嫁いだ女性が生家の先祖祭祀を主体的に行なわなくなるとともに、先祖祭祀の根拠である財産も継承されなくなることを意味していたと考えられる。嫁入婚が支配的な社会においても、財産や先祖祭祀の持込みを背景に女性の婚家での地位は低くなかったと思われる。しかし、女性が生家における継承権を失って生家帰属から婚家帰属となっても、婚家においては依然として主体的な継承権は与えられず、女性の地位は相対的に低下したのではないだろうか」311頁

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森本一彦(2006)「先祖祭祀と女性——半檀家から一家一寺へ」、落合恵美子編『徳川日本のライフコース——歴史人口学との対話』ミネルヴァ書房、283-304頁

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「子どもたちは、父方の祖父母と同じように母方の祖父母を敬愛するよう教育される。このようにして南部では、家族における女性および妻の地位が向上し、女性のふるまいに関する儒教の影響力も大幅に弱められていったのである」292頁

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「宗族をめぐる子どもたちの序列は、南北でずいぶんと違っている。まず南ベトナムでは『長男』や『長女』を表す特定の言い方がない。一番上の子は『次男』や『次女』、つまり2番目の子とよばれるのである。そしてこの序列にもとづいてさらに下の子どもたちが数えられ、最後は『末子』となる。北部なら、子どもたち世代の代表者はあくまで長子であって、より多くの遺産を相続すると同時に、年老いた両親の世話と先祖祭祀の責任を負う。これと対照的に、南部では、この役目を引き受けるのは末子となる。両親は末子の家に同居し、その死後の供養をするのも末子なのである。息子がいない場合には末娘がその役に当たることになるが、この場合はふつう末娘の結婚相手(義理の末子)が供養を行うことになる。遺産相続はふつうすべての子どもたちの間で均等に分割されて行われる。もしいくぶんかの優先権が与えられることがあるとすれば、それはやはり末子に対してである。したがって南部においては、年長の者に敬意を払うことが当然視されている一方で、『長子優先(trương thương)』の原則が何らか実効性をもっていないことになる。そして、まさにこうした事実が、南部の農村部において、家族の核家族化のプロセスを容易に加速させたといえる」291頁

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