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「家族愛はまず上流階級にあらわれ、広がったのであって、貧しい人びとの間にそれが広がったの比較的最近のことである。…夫婦が愛情を確かめあうには、2人だけの寝室、第三者を気にせずに甘い愛に酔いしれることのできる寝室が必要であった。このように家屋の構造の変化は感情革命の一側面をあらわしている。しかし、感情革命のべつの側面——たとえば男女関係におけるロマンティック・ラヴの出現——は、伝統的な住環境の変化をともなうことなく、下流階級から生じてくるのである」45頁

「家族史とは、核家族と周囲の共同体との関係の歴史である」45頁

「家族と共同体との関係は、20世紀と18世紀とでは異なる…今日では、私的領域と公的領域との間にははっきりと線が引かれており、それを犯すのは、市民の自由に対する侵害とみなされる。伝統社会では共同体と家族とはかたく結びついており、網のようにはりめぐらされた規則が両者を安定させていたのである。

 伝統社会の家族のおかれている環境そのものが、家族の親密さを作り出す妨げになっていた。好奇心にみちた顔が〈愛情生活〉をのぞきこんでおり、家族でもない人びとがひっきりなしに家に出入りした。生活空間が狭いためにどこにでも村びとの目が光っていて、感情や愛情に対する公的な規制もきわめて強かった。家族の親密な情緒的結びつきは生まれようもなかったのである。近代夫婦が生まれてくるためには、この強固な共同体生活が解体する必要があった。世代別に世帯が分離し、また家族でない人びとを家から除外し、家族規模が小さくなり、年齢的に近い人びとによって家族が形作られてはじめて、家族の感情的一体化が生まれてくるのである。そして夫婦は自分たちのことを自分で決定するという自立性をもち、心のままに振る舞っては大変なことになるという声を追い払わなければならない」54頁

「寒々とした農家やじめじめとした納屋のなかで、どのような家族の心の交流があったのか…気むずかしい使用人や病気がちの幼児にとりかこまれて、夫と妻は、どのように暮らしていたのだろうか。…次のようなスウェーデンの農民夫婦の姿のほうが真実に近いようである。『男が前を歩き、女は後を歩く、広い道でも、女は男と並んで歩いてはならず、後にさがって歩く。使用人である15歳の少年も、相手が30歳の女使用人であっても主人の娘であっても、男であるから前を歩くことには変わりない。実際に、この少年のうしろを農場主の妻が歩いているのを見ることもできる』」55-6頁
↑ K. Rob & V. Wikman (1937), Die Einleitung der Ehe, p.348.

「数世紀前には人びとは通常愛情ではなく財産やリネージのために結婚したこと、夫婦が互いを思いやったり顔をつきあわす機会を最小限に抑え、まず生活を支えていくためにこの冷淡な家族関係をむしろ大事にしたこと、そして、仕事の分担や性役割を厳格にして、感情をできるだけもたないようにしたことである。現代の夫婦なら、表情豊かに振る舞い、抱擁しあい、見つめ合って互いの心を確かめるが、伝統社会の夫婦には、そうした触れ合いはほとんどみられなかった。『俺は俺の役割を果たす。お前はお前のことをしろ。2人とも共同体の期待どおりに生きていく。<それだけのことさ>。それで死ぬまで大過なくすごせるというものだ』。かれらは、自分たちが幸せかどうか自問することすらしなかっただろう。
 …私は、伝統社会では、ほとんどの夫婦に愛情が欠けていた(もちろん、一握りの上層ブルジョワや貴族の家庭はこのかぎりではないが)と主張しようと考えている」56頁

「18世紀の…この若き医師[ブリゥド医師]によれば、田舎者に愛がみられないのは、生活の重荷に打ちひしがれたその日常のためであり、動物的に〈自然の成り行き〉に身をまかせた結果なのである。
 しかし、判を押したようにどの農村においてもみられる女性の男性への従属は、単に悲惨な境遇だけに原因があるわけではない。たとえば、アベル・ユーゴに描かれているブルターニュ地方の夫婦は、生きることだけで精一杯という状況にはなかったが、親密な感情的つながりをもっていたとは思えない。『妻は、家の中では女中頭にすぎない。土地を耕し、家事をし、夫が終わったあとで食事をとる。その夫の話ぶりは荒っぽく、ぶっきらぼうで、ある種の軽蔑すらうかがわれる。…』…フランス中央部にあるブルボネ地方でも、ブルターニュ地方と事情はそうかわらなかった。時代的には、少し新しくなるが、ベルナール-ラングロワ医師の証言に耳をかたむけてみよう。『この地方にも幸福な結婚をする人びとはいる。しかし、多くの人びとにとって、結婚生活は束縛にすぎない。相手に敬意を払ったり、気遣いや優しさもみられない』」57-8頁→

(承前)「このように当時の人びとが記すところでは、農民の間にはロマンティック・ラヴなど——これが出現するのはもっとあとのことである——存在すべくもなかったし、都市の中流階級の家庭にはすでにこの頃にみられた夫婦間の特別な親密さ——これはのちに『家庭愛』となる——も存在しなかった。農民の夫と妻は、それぞれに殻に閉じこもり、冷やかに対立し合ったままいっしょに暮らしていたのである。…
 …一般には配偶者の死をこれほど深く悲しむことはなかった。相手が死ぬとわかっても、それで情がうつるということもなかったと思われる。…農民夫婦を結びつけているのは情緒というよりも経済観念であったので、妻が病にふせっても夫は医者にかかる費用をだしおしんだ」58-9頁

「農民夫婦が互いにどう呼びあっていたか、あるいはどう呼ばれるのを好んでいたかを知れば、夫婦の心のうちをかいま見ることができるであろう。しかし、この点からみても、フランスの農民家族が友愛結婚の砦であったとはとても思えない。たとえば、サン・ロマン・アン・ガル(ローヌ県)という山村では、『妻は夫を尊敬しているようにみえる。妻は夫を〈旦那様〉、〈御主人様〉、〈御亭主様〉と呼び、間違っても親しげに呼ぶことはない。そして夫が食事をしている間中そのうしろに立っている』。その他の資料にも、農民の間では妻が夫を親しげに呼ぶことは珍しく、婚約中はなれなれしく『あんた』と呼んでいた女性でも、婚礼の日を契機に丁寧に『あなた様』と呼ぶようになる、と書かれている。
 …夫婦の間には、情緒面での深い断絶があったように思われる。よしんば、厳格に定められた社会的役割や性役割の枠組から抜け出ようとする人びとが少なからずいたとしても、それが資料に記録されていない以上、われわれにはわからないのである。
 社会の各層、また多分、都市と農村によって微妙な差異は認められたとしても、夫婦間の冷淡さは、1800年以前の夫婦生活の基本的特徴であり、どこでもそう大きな違いはなかった」61頁

「1748年に、プロシアの小都市ハレで小規模に発行されていた週刊誌が、1つの統計的な推定をおこなっている。すなわち、1000組の結婚のうち、幸せなのは10組そこそこであり、残りすべての結婚において、『夫婦はかれらの選んだ結婚を呪い嘆いていた』。…ドイツの小ブルジョワ階層に関するヘルムート・ミューラーの最近の研究…は、18世紀ならびに19世紀初頭の文学的資料や民族史学的な資料の徹底的な調査にもとづいている。ミューラーは、1820年以前のこの階層における結婚に、ロマンスを思わせるようなものはなに一つ見つけられなかった。彼が出会ったのはすべて、妻とも家族とも感情的なつながりをなんらもたない父親であった——かれらは、粗暴で強圧的で、男として外面を保つべく謹厳をよそおい、そして…狂ったように権威主義的となっていた。
 重要なのは小ブルジョワの夫がすべて粗野な人間であり、妻が残忍な仕打ちをうけていたということではなく、むしろそれぞれの果たすべき役割が厳密に定められていたことである。そして、役割遂行がうまくいかない場合、理解や歩み寄りをするだけの愛情がかれらの結婚生活にはなかったのである」63頁

「女性も<特定の領域においては>全面的に権限を握っていたことが明らかになっている。性によって完全に役割や仕事が区分されていたために、主婦は自分の小王国を思うがままに統治できたのである。夫が妻の仕事に口を出そうものなら、妻がとがめなくとも、友人か隣人の誰かが夫をたしなめた。これに対して今日では、女性特有の分野での女性の『権限』はかなり低下している。というのも、女性は、伝統社会では自分の管理下にあった領域をすべて男性とわかち合うようになったからである。友愛結婚においては、夫婦は、およそなにごとにつけ相談し、協同しあうものである。そのため、それぞれに完全にまかされる領域は小さくなってきている」68頁

「フランス…最も重要な点は、農婦がそれぞれの世帯において、かなりの権限をもっていたことである。今日のセルビア共和国の家庭において、男女間で『相異なっているが同等の』支配権が認められているように、伝統社会のフランスでも女性が一定の生活領域を明らかに支配していた。しかし、女性がつかさどる領域は、外部の市場経済からはっきりと隔てられていたため、夫に対してはほとんど力を持っていなかった。彼女は家に新しく富をもたらしはしたが、夫や世間に対しては、万事につき隷属的で下等な役割を果たさねばならなかった。そして、彼女が家庭内のある領域で自立性をもっていたとしても、そのことは彼女の境遇を改善するには少しも役立たなかった。市場経済と直接の接触をもつことによって——まず家内手工業によって、のちには、工場労働によって——はじめて、妻たちはこれらの従属的役割から自分を解放する手段を手に入れることになるのである」74頁

「夜に仕事から帰ってきた夫は、きつい仕事と貧苦で疲れ切っており、目の前の食事のこと——食事といっても、もちろん良いものではない——しか考えていない。休息が第一だったので、セックスの楽しみはそっちのけであった。セックスでは、彼の疲れを癒すことにはならなかったのだろう。妻は妻で、その日の気苦労や労苦で疲れ果てており、つましい食事——乳飲み子が食事の栄養の大半を奪ってしまう——が終わると、夫の腕に抱かれるよりは、夫のそばで眠りにつくことになる。わたしは、確信をもって次のように言うことができる。彼の抱擁〔彼のこの言葉はセックスを意味している〕は、純粋に本能的なもの以外にはありえず、やむにやまれない欲求からしか起こらない……。

 パルム医師がこれを書いたのは、農婦のところに幼児を里子に出している母親たちに、農婦たちがセックスの妄想にとらわれたりしていないと安心させるためであった。当時の人びとは、前戯や後戯によって引き起こされる性的興奮は、乳母の乳に悪影響をおよぼすと考えられていたが、農民の間ではそのような心配はいらないとこの良き医師が反論したのである」79頁

「もし、ヘルムート・ミューラーの使った資料が信用に足るものであれば、ドイツの小ブルジョワにおいても、夫婦間のセックスは上の事例と同様のおざなりのものであった。彼は、『男性の性愛的に相手を満足させる能力のなさ』について書いており、また仕立て屋のヘンドラーについて次のような話を語っている。彼は『無理やり押しつけられた妻である年上の女に好感も情愛も』抱いていなかった。にもかかわらず、彼女との間に14年間で10人の子どもをもうけた。かれらの性関係のありようが想像されよう」79頁

「18世紀末になると、若者たちは結婚相手を選ぶとき、財産や親の意向といった外的な動機よりも、内的な感情を重んじるようになった。かれらは、親がよいと思う相手ではなく、自分の好みの相手を選ぶようになったのである。さらに1950年代から60年代になると、年齢にかかわりなく——といってもとくに若者であるが——人びとは、ロマンティック・ラヴから感情的おおいを取りさって、性的本能をあからさまにするようになる。そして、人びとは人間関係においてエロティシズムこそが貴重であると考え、かつてのように時間をかけて感情的なつながりをえようとせず、すぐに性的関係をもつようになったのである。こうした心性の歴史的変化は、一般の人びとの間に広がり、社会的秩序に大きな影響を与えたのであり、それは革命的と表現してもよいほどであった。わたしが…『2つの性革命』と名づけたのはそれゆえである」83頁

「18世紀末には、婚前セックスにおける最初の革命があった。そして、1960年代には第2次性革命が起こり、その結果、婚前セックスは誰でもが経験するごく一般的な事柄となったのである」88頁

「18世紀末の婚外妊娠の急増こそ、説明されるべきもっとも重要な現象である。これはその前後(少なくとも1960年代以前については)のどのような婚前セックスにおける変化にもまして、多くの人びとの生活を変えたのである。結論を先取りしていえば、それはより広範な社会変化と完全に一致している。すなわち、かつて何世紀間もほとんど変化しないで続いてきた伝統社会は、『近代社会』と呼ばれる社会によって破壊され、とって代わられた。愛すべきわれわれの社会は、とりわけ愛情生活にまつわる事柄に関して、失われた世界とはまったく異なっているようにわたしには思われる。結婚前の男女の態度や行動におけるこの未曾有の変化は、伝統社会から近代社会への移行の一環をなしていると考えている」89頁

「フランドランは、性的衝動は普遍的に存在すると考えており、エロティシズムというものは一面でおさえこまれると、他の面でさまざまに現われてくるというのである。
 …フランドランは間違っており、1750年以前の大部分の若者の生活にはエロティックな要素はなく、伝統社会では独身者の性衝動は完全に抑圧(昇華といいかえてもいいが)されていたと考えている。
 たとえば、マスターベーションは、婚前セックスの革命が起こる前には、それほど広くおこなわれていたようには思えない」102頁

「第2次性革命
 20世紀の婚前セックスを考えるにあたっては、次の3点を心にとどめておく必要がある。(1) 中世以来、今日ほど婚前セックスが一般的だったことはないこと。(2) 1900〜1950年の期間は、過去の数世紀と比べれば明らかに『近代的』であるとはいえ、この期間内にはほとんど変化がみられなかったこと。(3) 1960年代と1970年代初頭に、第2次婚前セックス革命(第1次革命は18世紀末に起こっている)ともいえる大きな変化が起こったことである」112頁

「アメリカ合衆国では、1900-1909年に結婚した白人女性で、結婚前に妊娠した割合は7%であった。1945-49年ではそれは10%であり、それほど大きな変化はみられない。スウェーデンでは、女性が結婚前に妊娠している確率は、1911年では3分の1であり、1948年でもその比率はかわらない。第一次大戦以前のドイツの工業都市では、結婚したカップルのうち花嫁がすでに妊娠していたのは、2組ないし3組に1組の割合であった。30年後におなじような状況であった。どちらかといえば、婚前妊娠は、20世紀半ばよりも18世紀末のほうが多かった。というのも、この150年間で結婚していない人びとの避妊実行率がはっきりと高まったからである。
 1900年から1940年にかけて、どの国においても非嫡出子の誕生が急速に減少したことを思いおこす必要がある。…われわれは、非嫡出子減少の原因がセックスの減少にではなく、避妊の実行率の上昇にあるという結論に達したのである」113頁

「ドイツの労働者における自体愛の行動は、1960年代に頂点に達したと思われる。5分の4が15歳までに、10分の9が29歳までにマスターベーションをはじめていた。女子では15歳までに3分の1、20歳までにほぼ60%が経験した」120頁

「若者たちは、家族からも周囲の共同体からも性については統制されていたが、それからしだいに解放されてきたことである。セックスは、かつて未婚の若者どうしの関係において、危険でしかも二次的なものにすぎなかったが、いまや出会いとデートの中心的部分となった。このようにセクシュアリティが解放され、男女関係における他のあらゆる競合的な情動(金銭欲や家族エゴなど)を駆逐する過程は、2つの段階をへて進行した。すなわち、異なる2つの性革命があったのである。
 第1に、18世紀末ごろ婚前セックスが独身者の生活の一部になりはじめた。この時期以前には、結婚式をひかえた男女においてさえもセックスはゆるされなかった。この時期以降は、交際をはじめたかなり早い段階から、婚約した男女がセックスをする事例がおおくなったし、時代がさがるにつれて、婚約していない偶然ひかれあっただけの男女でさえも、ともに一夜を過ごすようになった」124頁→

(承前)「第2に、1950年代半ば以降になると、多くの未婚者にとってセックスはごく普通の体験となった。1960年代には、たがいにひかれあった若い男女が、性の領域にまで2人の関係を発展させる可能性は非常に高くなった。またそれほど愛情を感じていない男女が、セックスをすることも多くなった。そして、かれらは、『性の宣教師の役目』をはるかにこえて、性の試みをおしすすめることさえあった。…1960年代になると、カップルがセクシュアリティの領域で量的ないし質的な満足がえられない場合、そのカップルは解消され、またべつの相手と交際をはじめることも多くなった。<このようなこと>は、過去にはけっして考えられなかったことである」124-5頁

「伝統社会の男女交際における打算と愛情
 …男女関係に感情の交流がみられなかったという第1の証拠として、打算的な結婚をあげることができよう。若者の希望はまったく無視され、家を守り繁栄させたいという両親の願望を満足させる相手と結婚するとすれば、そこには、愛情も感情もみられないと断言してさしつかえないだろう」145頁

「フランスの農民の中ではかなりの少数派である富裕な農民の間では、やはり、家族の利害が第1であり、個人の健康やカップルの幸福は第2であった。
 しかし、結婚の多くは見合い婚ではなかった。個人がそれぞれ自由に相手を選んだのである。その場合、男女関係にどのていど愛情がみられるのだろうか。このことを考える場合にはまず、いつの時代でも現代のように人びとは感情を表現するものではないということを、あらかじめ心にとめておく必要がある。異文化の人びとは、われわれと同じ情動を感じても、われわれとまったく違ったようにそれを表現するかもしれない。それゆえに、18、9世紀の過去の農民をみる場合も、内的な情動のわれわれとは違ったあらわれ方に、常に注意をしなければならない」146頁

「ロマンティックな行動パターンは、特殊な時代的、文化的条件のもとで偶然あらわれることがあっても、もともと<伝統社会の>農民の男女交際にはみられないものである」147頁

「われわれの失った世界では、男女関係にいかなる感情劇も伴っていなかったということである。精神の高揚や絶望は、感情のうねりが歴史の表面にあらわれてきたときに、初めて生まれるのである。
 …農民の男女関係にロマンスが欠けていたという証拠は、公的な場でのカップルの振る舞いにもみることができる。…伝統社会の農民は、われわれのように感情を表現しようとしなかったと考えて間違いないであろう」148頁

「決心が本物かどうかは、最終的に、あらゆる障害をのりこえようとする意志によってきまる。この点において、農民たちの心は優柔不断なことこのうえない。すなわち、両親が結婚に反対するという障害につきあたると、若い2人は、どちらもあきらめてしまうのである。間違いを犯してはならない。両親の同意が<必要>なのである。両親の意思に逆らうと、財産を継承できないかもしれないのだ。世襲される社会では、世襲財産をもらえないことにでもなると、自然と飢え死に寸前にまで追いこまれることになる。また、しかるべき結婚式もあげないで家をかまえると、共同体のみんなの非難の的になるのはいうまでもない。それゆえに、少年が、少女の両親に結婚の申し込みをするまで、2人は何も決められないのである」150頁

「2つのことが読み取れる。第1に、カップル自身が自分たちの心の問題より家族利害を優先すべきことを了解していること、第2に、この過程にはかりな儀礼的な要素がみられることである。若い男女のつきあい方は、慣習によって決められており、『申し込み』をするための複雑なダンス(男性は決まりきった口上を完全に覚えてしまっている)、自分の愛がいかに純粋なものか、そして、どれほど夢中になっているかの表明——すべては、決まりきった会話であり、この古くからある男女交際劇の配役たちは、言うべきせりふを成長とともに学び、一生の間に繰り返し使うのである。人間どうしの自発的な関係、あるいは個人と個人の創造的な交渉といった世界はほとんどなかったのである。
 20世紀に入っても、相変わらず若者たちは両親の希望に逆らうことはなかった。ただし、第一次世界大戦の頃には、農民たちの間でも、感情のあり方そのものは大きく変わってしまっていた。…そう、これが、ロマンティック・ラヴというものである」151頁

「明らかに、肉体的魅力は、それほど重要ではなかった。…
 自分の仕事をしっかりやる頑強な女性と結婚することが必要であった。そのためには、われわれ現代人にとって、理想の女性美の構成要素である優美な体の線や造作の美しさには、目をつむったであろう(女性の目にうつる男性についても同じことが言えよう)」152頁

「都市のブルジョワジーとこれらの田舎の農夫とは、大きなへだたりがある。しかし、男女関係にロマンスが欠けていた点では同じである。確かに、19世紀半ば以降になると事態は変わりはじめる。しかし、それ以前には、小ブルジョワジーのカップルは、『<打算>』や『<利害>』に支配されており、『相手への思い』とか『心の命ずるところにしたがう』といったことは問題にならない。
 …われわれ近代人の目からみれば、何と哀しい光景だろうか。そこでは、<打算>が〈愛情生活〉を支配し、感情は、この人生の最も重大な決定に全くかかわっていないのである。<打算>は、同族結婚の別名である。…伝統社会では。経済的利害が優先するために、『適格者』の範囲がせばまり、心の問題などが表面にでてくる機会はない。ただ持参金の多い者と結婚するだけである。たまたま持参金が同じぐらいの額であれば、若者のグループが——何世代にもわたって蓄積されてき受け継がれてきた経験から、社会的に釣り合いがとれているかどうかを感覚的に判断して——最適の相手をすすめるのである」154-6頁

「〈男女関係の変化〉
 19世紀から20世紀にかけて、男女関係にみられる最大の変化は感情が重視されるようになったことである。2つの事が起こった。1つは、人びとが結婚相手を選ぶとき、愛情や相性を第1の公準と考えはじめたことである。この新しい基準は、ロマンティック・ラヴと言いあらわすことができる。もう1つは、相手選びに際して打算的考えや富という伝統的な公準にしたがっていた人びとでさえ、あるていどロマンティックな行為をとりはじめたことである。
 これは、ロマンティック・ラヴと共同体の統制との間の関係が大きく変わったことを意味している。というのも、ロマンスという場合、自発性と感情移入が問題になるからである。自発性と感情移入、それは優しさや愛情を自分なりに表現をする能力、および相手の気持ちになれる能力である。ロマンティック・ラヴのこの2つの側面は、伝統とはまったく相入れない。すなわち、自発性によって、2人のその場その場の会話が、伝統的な台本にもとづく会話にとってかわるからであり、また、感情移入は、男性の生活と情動を女性のそれと慣習的にわけへだててきた性的役割、すなわち、性的分業をあいまいなものにするからである。ロマンスの理想を実現するには、カップルは、自分たちをとりまく共同体から離れなければならない」156頁→

(承前)「というのも、共同体は伝統を押しつけようとするからである。さらに、手をとりあったり、愛の戯れをさまざまに楽しむためには、プライヴァシー——好奇な目から遮断されること——が必要である。ロマンス革命は、18世紀末にはじまり、19世紀には階級や地域を問わず広くいきわたり、20世紀には、ロマンスは男女関係の異論の余地のない公準となった。この革命は、人間関係に2つの構成要素をもたらした。1つは、男女の新しい相互関係であり、もう1つは、社会単位としてのカップルとかれらをとりまく社会との新しい関係である」156-7頁

「同族結婚が社会的に減少していく過程でとりわけ興味深いのが、職業的な同族結婚の領域である。ここで『職業的』同族結婚といっているのは、たんに同一の階級や地位の者どうしの結婚をさしているのではなく、同じ仕事にたずさわっている家族どうしの結婚を意味している。…
 ヨーロッパの伝統社会には、こうした職業的同族結婚が非常に多くみられた」159頁

「同じ職業どうし、同郷出身者どうしの結婚にくわえて第3のものとして、年齢にかかわる同族結婚がある。この場合は、結婚相手が年齢的に<近い>ということが、ロマンティック・ラヴによって結ばれたことを示し、年齢が<はなれている>ことは、打算的な考えが働いていることを示している。これには、2つの理由がある。(1) 同年輩の者どうしが結婚すると、同じように年をとっていくので、老いぼれた夫と女ざかりの妻との間に生じるごたごたは、なくなる[😅]。伝統社会では、若い妻が姦通する心配はなかった。というのも、彼女たちは、姦通してはならないことを身にしみて知っており、性的欲求を抑制したからである。(2) ロマンティック・ラヴで結ばれた2人は、日頃たえまなく、いろいろなことを話しあうものである。愛情で結ばれた結婚では、2人は常に語りあう。しかし、話をするためには、共通の体験をしていることが必要であろう。同じ年齢に属していると、共通の話題をもつことはごく簡単である。
 過去200年の間に、年齢のはなれた人びとが結婚する事例はいちじるしく減少した」162頁

「近代化がすすむにつれ…季節的なむらはなくなってくる。特定の季節にかぎって婚前セックスが多くなるのではなく、1年を通じて平均化され、どの月をとっても大した差がないようになるのである。…国単位でみてはっきりとそういう兆候があらわれるのは、ドイツの例にみられるように、19世紀から20世紀にかけてである。今日、アメリカ合衆国では、婚前セックスの季節的なばらつきはまったくない。1年のいつをとっても同じである。
 これらの数字は、セックスとロマンスが庶民の日常生活の一部分として定着するようになったことを示していると考えることができる。伝統社会とは異なって、近代世界のセックスは、未婚の人びとのごく普通の日常生活にとけこんでしまっているのである。…統計的に『季節による振幅』がみられなくなったのは、現実の世界でロマンティック・ラヴが日常化したことを意味しているのである。すなわち、『恋人たちの季節』がなくなるのにつれて、未婚の人びとの間ではいっそうセックスが日常生活の一部になっていったのである。こうした統計は、若い男女が知り合う機会が増えたことを示しているわけではないが、人びとは、自分が属している共同体の生活の周期ではなく、欲望や状況にしたがってベッドをともにしたことを示しているのである」166頁

「19世紀のある時期に、ヨーロッパ全体で、多くの若者が男女関係に関する共同体の統制を断固として拒否するようになった。かれらは、どんな集団的管理をも受け入れなくなったのである。社会学の通説によれば、男女を結びつける機構は共同体管理から仲間集団による管理へと一般的にうつっていく。しかし、そこにとどまるわけではない。最終的には、若い男女は、自分たちの愛情生活に関しては、大人社会にもその下位にある仲間社会にもしたがおうとしなくなる。男女関係はまったく私的な領域となるのである」166-7頁

「〈現代の男女関係〉
 性行動パターンと感情パターンの間には密接な関係があるというのが本書の主眼である。19世紀末にみられた婚前の行動の変化は、感情を大切にしようとする志向とともに生じてきた。同じく、20世紀にも別の大きな変化が起きている。これは…1960年代の第2次性革命として描いたものである。第1次性革命の主要なテーマは、相手選びの際に愛情が優先されるようになったことである。20世紀になると、ほとんどの地域でロマンティック・ラヴは、〈打算的〉な考えを打ち負かした…第2次性革命のもつ2つのテーマは、自分たちをとりまく社会からの圧力——それが家族によるものであれ、共同体や仲間集団によるものであれ——をカップルがはっきりと拒否すること、およびセックスと『一生不変』の2人の結びつきとを別のものと考えるようになったことである」168-9頁

「<周囲の共同体と交際中の男女の関係> 伝統社会では、さまざまな社会的なネットワークやさまざまな仲間集団がカップルづくりやその行動を導いていた。そこには不釣り合いな結婚もなかったし、『軽率なこと』して秩序だった財産の移譲や、共同体に対する思い責任を放棄するような危険もなかった。
 18世紀後半の最初の性革命によって、男女関係は共同体全体の統制からはなれ、若者の仲間の手にわたった。無差別に相手を選ぶにはまだ障壁があった——それは、感情のほとばしりによって動きはじめたエロスが全面的に爆発するのをふせぐ壁であった。しかしその障壁は、自分自身の発見と親密さを全体としてよしとする下位文化のなかにおかれたものであった。それゆえに、セックスが頻繁にもたれるようになるにつれて、若者組織が、村の組織のような強制力を欠いていたために、間違いが起こり、誘惑者が逃げだして非嫡出子が生まれることにもなった。しかし、そのような間違いがあったとはいえ、セックスをする若者たちは仲間集団の規範にしたがおうとしていたのである」174-5頁→

フォロー

「男女関係の領域では、自由への希求はロマンティック・ラヴとしてあらわれる。幸福になりたいという願望、長い内面への旅に乗りだし、自己を磨き、自己を発見したいという願望がロマンスという形で意識の表面にのぼってきたのである。…性体験も自己実現の一部であって、個人主義によって共同体への忠誠という拘束を解放された人びとは、すぐに自由な性関係をもつにいたったに違いない。このように、資本主義は労働力市場を介して、ロマンティック・ラヴの出現に影響を与えた。つまり、経済的個人主義が文化的自己中心主義を生みだしたということであり、私的な快楽が全体の利益に優先し、自由への希求の結果として非嫡出子が激増したのである。
 …この自由への希求が男性よりも女性に大きな影響を与えた…女性の側で、男性とベッドをともにしてよいという態度が、18世紀になってはじめて生まれた…それは賃金労働の機会が増えたことによると、わたしは考えている」274頁

「自由への希求が芽ばえ、個人的自立や性の冒険に対する願望が気持のなかにおこってきていたがために、これらの女性は自ら進んで資本主義を求めたのだろうか。それとも、彼女たちはやむをえない事情から、伝統社会の安息の地から引き離され、このような自分に似合わない新しい経済環境に追いやられて、そこで性を食いものにされたのだろうか。わたしは前者の可能性が高いと考える。なぜなら、19世紀にはヨーロッパのあちこちで、若い未婚女性が資本主義的な賃金労働に惹かれ、伝統的職業から離れつつあったからである」276頁

「母親が自分の時間を育児とは違ったことに使う必要がなくなったのは、経済成長のおかげであった。手工業の雇う職人の数が多くなるにつれ、同様に、農民の場合も作男の数が増えるにつれ、妻の援助はそれほど必要ではなくなったのである。資本主義が農場や仕事場に浸透するにつれ、両性間の分業がはっきりしていき(ただし、性<役割>のほうはそれほど、はっきりと分離していたわけではない——これが本書を通じて性的分業と性役割を厳密に区別した理由である)、女性は生産活動よりも育児に専念するようになったのである。…
 このように、物質生活の向上した結果、母親は一段と育児に心を砕くようになった。家族の所得が増えるにつれ、女性の仕事も生産活動の担い手から育児係へと変わっていった。…そのおかげで子どもは生きのびることができたのである。
 19世紀末の乳幼児死亡率の急速な低下」279頁

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