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「『悲惨』派の解釈に対する主要な批判点は、子どもを明らかに冷淡に扱ったかなりの人びとは悲惨な状態にはなかったことである。…マーチャント・バンカーのすぐ下の階級の人びとはすべて貧困にうちひしがれていたとするのは、ばかげたほど単純化された階級観である。とりわわけ、肉屋やパン屋そして〈自作農〉は、派手な結婚式や持参金、在郷軍の制服をまかなうくらいの金はためこんでいた。しかし、これらの村の中産階級の人びとは労働者同様、生きている子どもに母乳を与えようとしなかったし、子どもが死んでも悲しむことはなかったのである」ix-x.

「事実というものはたいてい、ビスマルクでも、ルーズベルトでも、アレキサンダー大王でも、『内』にこそあるのだ。われわれは、かれらの物語の概略やなぜ戦争を宣戦布告したかについてはかなり正確に知っている。しかしわれわれは愛情生活という壮大な、空白の物語の前葉についてはほとんど知らないのである」xii.

「わたしの考えでは、伝統的家族が近代家族へと変化したのは次の3つの分野での感情の高まりのせいであった。
 <男女関係> ロマンティック・ラヴが、かつて男女を結びつけていた実利的な考えにとってかわる。結婚の相手を選ぶにあたって、個人の幸福や自己陶冶が財産やリネージに優先するようになるのである。
 <母子関係> 母親と子どもの間には説明のつかない愛情——生物学上の絆の産物——があるとしても、母親の理性的な価値順位において幼児が占める順位に変化があった。伝統社会においては、母親は幼児の幸福よりもます、すさまじい生存競争にかかわって多くのことを考えなければならなかった。他方、近代社会では、子どもはもっとも重要なものとなり、母性愛によって子どもの幸福が何ごとにもまして大切に考えられるようになったのである」5頁→

(承前)「<家族と周囲の共同体との間の境界線> 古き悪しき時代には、家族をつつむ殻にはたくさんの穴があいており、外部から人びとが自由に出入りして家族内の事柄を観察し、監視した。その穴を通して家族の者が逆に外部に出ていくこともあった。というのも、人びとは、家族よりもむしろ、さまざまな仲間集団に対して情緒的に相通じるものを感じたからである。いいかえると、伝統社会の家族は情緒的に結びついた単位というよりも、まず生産および再生産の単位であった。それは財産や地位を代々子孫に伝える機構であった。リネージこそが重要であり、家族が食事をともにすることは重要なことではなかった」5頁→

(承前)「その後、これらの優先順位が逆転する。外界に対する絆は弱められ、家族を互いに結びつける絆が強められる。そして外部からの侵入に対して家族の団欒を守るために、プライヴァシーという盾がもうけられる。この家族愛のシェルターの中で、近代核家族が誕生するのである。このようにして、さまざまな家族関係において感情が重要な役割を果たしはじめる。情愛と愛慕、愛と一体感が、旧来の物質的、『実利的』な考えにかわって、家族の行為の規範となった。夫と妻や子どもは、自分が果たすべき役割や、自分のなしうる行為によってではなく、むしろあるがままの姿で評価されるようになったのである。それが『感情』の本質である」4-5頁→

(承前)「この感情の高揚が家族と周囲の共同体との関係における変化の原因なのか、あるいは結果なのかは重要な問題の1つであるが、本書では答えられていない。『近代化』の強烈な衝撃によって、伝統的家族の安住の地であった共同体の構造が破壊されたのか、あるいは広範囲におよぶ社会変化が、まず家族員のそれぞれの心性に影響をおよぼし、その結果家族が互いに手をとりあい、部外者の出入りを家族の団欒をみだす迷惑なものとして制限するようになったのか。仲間集団の信義を放棄したのが先なのか、あるいはまず家族の情緒的な結びつきを重んじるようになったのが先か。こうした問題は、にわとりが先かたまごが先かという問題と同じく、答えることは困難である」6頁

「わたしの議論はヨーロッパ全体を対象としている。いかなる辺境の村でも、家族は遅かれ早かれ感情で結ばれた家族への長い道のりをたどることになる。近代化がもたらす夫婦生活の変化は本質的にどこでもかわらないからである。男女関係にみられる実利的態度から情緒的態度へのうつりかわりや、核家族の周囲の共同体からの離脱もまた、どこでも起こった現象である。…合衆国でもそれほど劇的ではなかったにせよ——新世界は『最初から近代社会として誕生した』ものである——同じ傾向が多少は認められるだろう。感情の高揚や共同体と家族の絆の切断は、たとえ時代的なずれや地方による差異があるとしても、ヨーロッパ社会では普遍的な現象であったといえよう」14-5頁

「ロマンティック・ラヴとは、男女関係において自分から進んで何かをしようという自発性と相手の気持になるという感情移入の能力と定義しよう。自発性を重要視するのは、それが、伝統的な対人関係、共同体に強要された対人関係の否定につながるからである。…
 …過去2世紀にわたって、西ヨーロッパ社会では、ロマンスが何よりもまず、男女間の心の垣根をなくし、魂の交流をつくりあげてきた。このような密度の高い心の交流がもたらした1つの結果は、厳密な性役割が薄れてきたことである。そうでなければ、心の触れ合いはありえなかっただろうし、人びとは定められた性役割の鉄の檻のなかに閉じこめられたままになっていたであろう。
 もちろん、性役割が完全になくなってしまったわけではない。性役割によって社会の安定性が保障されるという近代のシステムのもとで、子どもの社会化が徹底しておこなわれたために、性役割は完全にはなくならなかった。しかし、歴史的経緯をみると、近代初頭ヨーロッパでは、一般に厳格な性役割があったが、現代でははるかにゆるやかなものになり、男女は自らの役割をより自由に決定することができるようになった。感情移入こそが、情緒的生活にこのような柔軟さをもちこんだのである」15-6頁→

(承前)「感情移入と自発性はさまざまな人間関係を通じてみられるであろう。しかし、これら両者が男女関係においてあらわれるときロマンティック・ラヴとなる。…<前近代>では手段的な性関係が支配的であり、<近代>では愛情にもとづく性関係が重要になったと。未婚者のセックスを一般化した18世紀末の第1次性革命において、愛情にもとづく性関係はロマンティック・ラヴと結びついていた。1960年代の第2次性革命においては、それは快楽主義と結びついていた」16-7頁

「中世史に関する最新の研究では、『伝統的』という言葉は、宗教改革からフランス革命の3世紀間にもっともぴったりとあてはまると考えられている。最近になってようやく研究者も指摘しはじめていることであるが、13世紀は、さまざまな動きがいたるところで起こり、全般的に繁栄の時代で人口がうなぎのぼりに増加し、庶民文化が開花した時代であった。しかし中世後期になると、長期にわたる不況が続き…経済面、人口面、文化面についての衰退がはじまり、それは19世紀初頭まで続く。西ヨーロッパの文明史の中で、『伝統的』という言葉で表現できるのは、この衰退と停滞の時期である。後代の民俗学者たちが『太古の昔から変わりない』と考えた人びとの価値体系や行動様式が作りあげられたのは、この時期だったからである」21頁

「あらゆるところで同時に起こったわけではない。両極端を例にとれば、イングランド南部はブルターニュ内陸部に比べて2世紀も早く近代世界の入口に達した。しかしながら、遅かれ早かれあらゆるところで大転換が起こったのである」22頁

「1795年頃のパリのポパンクール地区では、同居している子どもの平均数は、日雇い労働者の場合1.8人で、小店主の場合には2.4人であった。パリ全体でも、19世紀を通じて、この2つの階級に違いはみられ、3人以上子どもを同居させている世帯は、卸売商人では3分の1にのぼり、労働者では8分の1にすぎなかった。近代初頭のフィレンツェでも、裕福な世帯ほど大規模であったと思われる。そこでは、貧しい世帯の同居人の数は平均2.5人であったのに対して、裕福な世帯では5ないし6人であった。有力なギルドに属する手工業者の世帯構成員(平均5.5人)は、非熟練工のそれ(平均3.7人)よりも多かった。
 大陸の諸都市でも同じであった。ストラスブルクの中流階級では平均して5.1人であり、下流階級では3.8人であった。デンマーク国境に近いシュレスヴィヒ州のウーズムという小さな町でも、18世紀のチューリッヒでもそうであった。これらの地域のすべてでブルジョワ世帯の規模が大きかったのは、中流階級が家業のために使用人や手伝いを多く雇ったからであり、また同居する子供[ママ]の数も多かったからである」25頁→

(承前)「1790年頃のマサチューセッツ州のセーレム…でもヨーロッパと同じような構図がみられ、世帯主の社会的地位が高いほど家内集団が大きい。平均すると1世帯あたり商人の場合で9.8人、親方大工で6.7人、労働者で5.4人であった。セーレムの中流階級は下流階級より多くの使用人と徒弟を雇っており、出生率も高く、商人と手工業者の場合、平均すると5.9人であった。それに対して、労働者は4.6人であった。
 工業都市のノッティンガムでも労働者の家族規模は他の地域に比べて幾分大きいとはいえ、1世帯の規模はブルジョワジーよりは小さかった。…重要なのは、伝統社会の都市では『中産階級』の生活とは、多くの同居人がいることを意味していたということである。『ブルジョワ的』という言葉が小さな家族規模と仲むつまじい家庭を意味するようになるのは、近代化が旧体制を完全に解体し、近代的な仕事に従事する人びとにあふれた新都市が数多く生まれてからのことである」25-6頁

「現実には[農家で]同居する子どもの数はそれほど多くはなく、せいぜい2、3人にすぎなかった。…当時の女性は受胎可能期間中に平均10回もしくは20回妊娠したと考えられているのに、現実には、親元にたった2人しか子どもがいなかったのはなせだろうか。これには2つの理由がある。第1の理由は早死である。…
 …第2の事情は、子どもが早くから家を出て仕事についたことである」27頁

「ロジャ・スコフィールドは、1782年頃のイングランドのベドフォドシャ州にあるカーディントン教区で息子や娘が家にとどまった確率について次のように書いている。ここでは、男子は9歳の誕生日まで両親とともに生活するのが普通であり、11歳まで学校にかよう場合もあった。10歳から14歳の男子の4人に1人が奉公にでており、15歳から19歳ではその割合は5人に4人ときわめて高くなっている。20歳はじめの男子の7人に6人ないし8人に7人はまだ奉公にでているか、もしくは結婚しており、30歳までには、ほぼ全員が結婚してしまったと思われる。…カーディントンの女子の家庭生活は男子と違っていた。学校に行く女子は3人に1人であり、15歳までに親元を離れた女子は少なかった。15歳から19歳の時に男子の4分の3がすでに家を離れたのに対し、女子は4分の1にすぎなかった。多くの女子は、夫に手を引かれてはじめて、親の家を離れたのであり、自分自身で働きにでることなど考えもしなかっただろう」28-9頁

「核家族の存在は、どの時代についてもつぎつぎと『確認され』、そのたびに大反響がわき起こった。定説を修正しようとする者にありがちなことだが、この場合にも従来の常識をくつがえそうとするあまりいきすぎもみられた。かれらは、家父長制の支配とクランについての社会学者の幻想を修正するにとどまらず、夫婦家族——父母、子どもおよび使用人——こそがいつの時代でも、どの地域でも支配的であったと主張し、歴史的にみて常に核家族は変わりなく存在するという、かれら自身、幻想的な仮説を主張するにいたったのである」31頁

[↑上記に関する原注]
「わたしが、ここで厳しく批判している著者とは、もちろんわたしの良き友でもあるピーター・ラスレットである。彼は、すでに評価の確立している著書Household and Family in Pastの序で次のように述べている。『家族史における仮説ゼロとわたしが命名しているものは、資料の現状からやむなく家族という組織は、そうでなかったということが実証されれば別であるが、常に変わることなく核家族であったと推論しなければならないことであり、〔それはこの問題についてのある独特の確信〕から生まれてくるものである』。しかし、この著作のなかで示されている報告すべてが必ずしもラスレットの意にそったものになっていない。ラスレットはさらに数頁あとで次のように述べている。『複合家族が通常の人びとの通常の生活の一般的な背景となった時期や場所があったとは、わたしが考えるかぎりにおいて正しくないということにすぎない』。しかし、バルカン諸国、バルティック海諸国、ヨーロッパのアルプス地方、中央ドイツさらに中央および南フランス…の社会史に詳しい学者であればすぐに、ラスレットは公平を失しており、修正の必要があることがわかる」原注34頁

「北アメリカとイギリス諸島は、親族をふくまない世帯がもっとも多い地域であった。たとえば、ニュー・イングランド植民地では、世帯は一般的にかなり大きかったが、その主な原因は同居する親族が多かったためではなく、子どもの数が多かったからである。デイヴィド・フラァティは、1700年頃のマサチューセッツ湾岸やロード・アイランドの典型的な家族の規模は、平均すると5.8人であったと推定している。これらの世帯には、家族にくわえて家屋共有者、種々の使用人や間借り人がふくまれているため、世帯の平均規模は大体1人分大きくなっている(全戸の3分の1に使用人がおり、全家屋の3分の1に共有者がいた)」31頁→

(承前)「ピーター・ラスレットは、イギリスの農村について、おじやおば(傍系親族)が同居している世帯はほとんどなく、祖父母の同居も少なかったことを明らかにしている。アングロ・サクソンの世界ではどちらかといえば、親族が同じ世帯に同居することよりも、近くに住むことが多かったと思われる。こうした親族の隣居がイングランドの伝統的家族生活の特徴であったことを示す事例もある。ニュー・イングランド植民地でも、親族関係にある多くの家族が隣あって住んでいたのは確かである。しかし、このことから、19世紀以前の農村生活において拡大家族(夫婦が親族と同居している)が、主流であったととうてい主張することはできない(逆説的ではあるが、むしろ近代化が進むにしたがって死亡率が低下し、祖父母が長生きして子どもと同居する可能性が高まるのである)」31-2頁

「西ヨーロッパの他の多くの地域では、直系家族が多く、家に親族が同居しているのが普通であった。19世紀のフランスの社会学者フレデリック・ル・プレは、〈直系家族〉なる用語をつくりだし、この家族形態においては、長期にわたって世代から世代へと農地が分割されずに譲り渡されるとした。結婚と同時に農地をとりしきるようになるにしろ、妻とともに相変わらず父親の権威に服して生活するにせよ、いずれにしろ、相続権をもつ息子は花嫁を家に迎え入れ両親と同居する(もちろん、その他の息子は一片の土地も受けとらず、結婚もできなかったであろう)」32-3頁

「直系家族は2世代家族と比較すると、数的にはどのていどだったのだろうか。ヨーロッパ全土にわたる綿密な調査をおこなったあとでないと確かなことはいえないが、マイン河以南のドイツ、ロワール河以南のフランスでは、直系家族が一般的であったと思われる。…
 主要な世帯構造の第3のものは、東ヨーロッパにみられる大拡大(複合)家族である。これは、ユーゴスラヴィアでは、〈ザドルーガ〉、[ロシアの]バルト海沿岸のクールラント地方では、〈ゲジンド〉と呼ばれている」36頁

「植民地時代のアメリカの家屋は、設計者がイギリス出身であることを反映してか、他人に煩わされず親密な家庭生活を営むことができる場として作られている。…独立戦争の頃までには、アメリカ植民地の男女は、ヨーロッパの国では考えられないほど自由に、部外者の監視をうけることなく、性生活や感情生活を送っていたのである。もちろん、まったく自由であったわけではない。核家族であっても、建物の構造上、かれらのプライヴァシーは必ずしも完全に守られたわけではない。…
 プライヴァシーは西から東にいくにしたがって守られなくなり、プライヴァシーという考えは上流階級から下流階級にうつるにしたがって稀薄になる。中世の仕切りのない生活空間を区切って、べつべつの機能をもつ独立した部屋を最初に設けたのは富裕な人びとである」44頁

「家族愛はまず上流階級にあらわれ、広がったのであって、貧しい人びとの間にそれが広がったの比較的最近のことである。…夫婦が愛情を確かめあうには、2人だけの寝室、第三者を気にせずに甘い愛に酔いしれることのできる寝室が必要であった。このように家屋の構造の変化は感情革命の一側面をあらわしている。しかし、感情革命のべつの側面——たとえば男女関係におけるロマンティック・ラヴの出現——は、伝統的な住環境の変化をともなうことなく、下流階級から生じてくるのである」45頁

「家族史とは、核家族と周囲の共同体との関係の歴史である」45頁

「家族と共同体との関係は、20世紀と18世紀とでは異なる…今日では、私的領域と公的領域との間にははっきりと線が引かれており、それを犯すのは、市民の自由に対する侵害とみなされる。伝統社会では共同体と家族とはかたく結びついており、網のようにはりめぐらされた規則が両者を安定させていたのである。

 伝統社会の家族のおかれている環境そのものが、家族の親密さを作り出す妨げになっていた。好奇心にみちた顔が〈愛情生活〉をのぞきこんでおり、家族でもない人びとがひっきりなしに家に出入りした。生活空間が狭いためにどこにでも村びとの目が光っていて、感情や愛情に対する公的な規制もきわめて強かった。家族の親密な情緒的結びつきは生まれようもなかったのである。近代夫婦が生まれてくるためには、この強固な共同体生活が解体する必要があった。世代別に世帯が分離し、また家族でない人びとを家から除外し、家族規模が小さくなり、年齢的に近い人びとによって家族が形作られてはじめて、家族の感情的一体化が生まれてくるのである。そして夫婦は自分たちのことを自分で決定するという自立性をもち、心のままに振る舞っては大変なことになるという声を追い払わなければならない」54頁

「寒々とした農家やじめじめとした納屋のなかで、どのような家族の心の交流があったのか…気むずかしい使用人や病気がちの幼児にとりかこまれて、夫と妻は、どのように暮らしていたのだろうか。…次のようなスウェーデンの農民夫婦の姿のほうが真実に近いようである。『男が前を歩き、女は後を歩く、広い道でも、女は男と並んで歩いてはならず、後にさがって歩く。使用人である15歳の少年も、相手が30歳の女使用人であっても主人の娘であっても、男であるから前を歩くことには変わりない。実際に、この少年のうしろを農場主の妻が歩いているのを見ることもできる』」55-6頁
↑ K. Rob & V. Wikman (1937), Die Einleitung der Ehe, p.348.

「数世紀前には人びとは通常愛情ではなく財産やリネージのために結婚したこと、夫婦が互いを思いやったり顔をつきあわす機会を最小限に抑え、まず生活を支えていくためにこの冷淡な家族関係をむしろ大事にしたこと、そして、仕事の分担や性役割を厳格にして、感情をできるだけもたないようにしたことである。現代の夫婦なら、表情豊かに振る舞い、抱擁しあい、見つめ合って互いの心を確かめるが、伝統社会の夫婦には、そうした触れ合いはほとんどみられなかった。『俺は俺の役割を果たす。お前はお前のことをしろ。2人とも共同体の期待どおりに生きていく。<それだけのことさ>。それで死ぬまで大過なくすごせるというものだ』。かれらは、自分たちが幸せかどうか自問することすらしなかっただろう。
 …私は、伝統社会では、ほとんどの夫婦に愛情が欠けていた(もちろん、一握りの上層ブルジョワや貴族の家庭はこのかぎりではないが)と主張しようと考えている」56頁

「18世紀の…この若き医師[ブリゥド医師]によれば、田舎者に愛がみられないのは、生活の重荷に打ちひしがれたその日常のためであり、動物的に〈自然の成り行き〉に身をまかせた結果なのである。
 しかし、判を押したようにどの農村においてもみられる女性の男性への従属は、単に悲惨な境遇だけに原因があるわけではない。たとえば、アベル・ユーゴに描かれているブルターニュ地方の夫婦は、生きることだけで精一杯という状況にはなかったが、親密な感情的つながりをもっていたとは思えない。『妻は、家の中では女中頭にすぎない。土地を耕し、家事をし、夫が終わったあとで食事をとる。その夫の話ぶりは荒っぽく、ぶっきらぼうで、ある種の軽蔑すらうかがわれる。…』…フランス中央部にあるブルボネ地方でも、ブルターニュ地方と事情はそうかわらなかった。時代的には、少し新しくなるが、ベルナール-ラングロワ医師の証言に耳をかたむけてみよう。『この地方にも幸福な結婚をする人びとはいる。しかし、多くの人びとにとって、結婚生活は束縛にすぎない。相手に敬意を払ったり、気遣いや優しさもみられない』」57-8頁→

(承前)「このように当時の人びとが記すところでは、農民の間にはロマンティック・ラヴなど——これが出現するのはもっとあとのことである——存在すべくもなかったし、都市の中流階級の家庭にはすでにこの頃にみられた夫婦間の特別な親密さ——これはのちに『家庭愛』となる——も存在しなかった。農民の夫と妻は、それぞれに殻に閉じこもり、冷やかに対立し合ったままいっしょに暮らしていたのである。…
 …一般には配偶者の死をこれほど深く悲しむことはなかった。相手が死ぬとわかっても、それで情がうつるということもなかったと思われる。…農民夫婦を結びつけているのは情緒というよりも経済観念であったので、妻が病にふせっても夫は医者にかかる費用をだしおしんだ」58-9頁

「農民夫婦が互いにどう呼びあっていたか、あるいはどう呼ばれるのを好んでいたかを知れば、夫婦の心のうちをかいま見ることができるであろう。しかし、この点からみても、フランスの農民家族が友愛結婚の砦であったとはとても思えない。たとえば、サン・ロマン・アン・ガル(ローヌ県)という山村では、『妻は夫を尊敬しているようにみえる。妻は夫を〈旦那様〉、〈御主人様〉、〈御亭主様〉と呼び、間違っても親しげに呼ぶことはない。そして夫が食事をしている間中そのうしろに立っている』。その他の資料にも、農民の間では妻が夫を親しげに呼ぶことは珍しく、婚約中はなれなれしく『あんた』と呼んでいた女性でも、婚礼の日を契機に丁寧に『あなた様』と呼ぶようになる、と書かれている。
 …夫婦の間には、情緒面での深い断絶があったように思われる。よしんば、厳格に定められた社会的役割や性役割の枠組から抜け出ようとする人びとが少なからずいたとしても、それが資料に記録されていない以上、われわれにはわからないのである。
 社会の各層、また多分、都市と農村によって微妙な差異は認められたとしても、夫婦間の冷淡さは、1800年以前の夫婦生活の基本的特徴であり、どこでもそう大きな違いはなかった」61頁

「1748年に、プロシアの小都市ハレで小規模に発行されていた週刊誌が、1つの統計的な推定をおこなっている。すなわち、1000組の結婚のうち、幸せなのは10組そこそこであり、残りすべての結婚において、『夫婦はかれらの選んだ結婚を呪い嘆いていた』。…ドイツの小ブルジョワ階層に関するヘルムート・ミューラーの最近の研究…は、18世紀ならびに19世紀初頭の文学的資料や民族史学的な資料の徹底的な調査にもとづいている。ミューラーは、1820年以前のこの階層における結婚に、ロマンスを思わせるようなものはなに一つ見つけられなかった。彼が出会ったのはすべて、妻とも家族とも感情的なつながりをなんらもたない父親であった——かれらは、粗暴で強圧的で、男として外面を保つべく謹厳をよそおい、そして…狂ったように権威主義的となっていた。
 重要なのは小ブルジョワの夫がすべて粗野な人間であり、妻が残忍な仕打ちをうけていたということではなく、むしろそれぞれの果たすべき役割が厳密に定められていたことである。そして、役割遂行がうまくいかない場合、理解や歩み寄りをするだけの愛情がかれらの結婚生活にはなかったのである」63頁

「女性も<特定の領域においては>全面的に権限を握っていたことが明らかになっている。性によって完全に役割や仕事が区分されていたために、主婦は自分の小王国を思うがままに統治できたのである。夫が妻の仕事に口を出そうものなら、妻がとがめなくとも、友人か隣人の誰かが夫をたしなめた。これに対して今日では、女性特有の分野での女性の『権限』はかなり低下している。というのも、女性は、伝統社会では自分の管理下にあった領域をすべて男性とわかち合うようになったからである。友愛結婚においては、夫婦は、およそなにごとにつけ相談し、協同しあうものである。そのため、それぞれに完全にまかされる領域は小さくなってきている」68頁

「フランス…最も重要な点は、農婦がそれぞれの世帯において、かなりの権限をもっていたことである。今日のセルビア共和国の家庭において、男女間で『相異なっているが同等の』支配権が認められているように、伝統社会のフランスでも女性が一定の生活領域を明らかに支配していた。しかし、女性がつかさどる領域は、外部の市場経済からはっきりと隔てられていたため、夫に対してはほとんど力を持っていなかった。彼女は家に新しく富をもたらしはしたが、夫や世間に対しては、万事につき隷属的で下等な役割を果たさねばならなかった。そして、彼女が家庭内のある領域で自立性をもっていたとしても、そのことは彼女の境遇を改善するには少しも役立たなかった。市場経済と直接の接触をもつことによって——まず家内手工業によって、のちには、工場労働によって——はじめて、妻たちはこれらの従属的役割から自分を解放する手段を手に入れることになるのである」74頁

「夜に仕事から帰ってきた夫は、きつい仕事と貧苦で疲れ切っており、目の前の食事のこと——食事といっても、もちろん良いものではない——しか考えていない。休息が第一だったので、セックスの楽しみはそっちのけであった。セックスでは、彼の疲れを癒すことにはならなかったのだろう。妻は妻で、その日の気苦労や労苦で疲れ果てており、つましい食事——乳飲み子が食事の栄養の大半を奪ってしまう——が終わると、夫の腕に抱かれるよりは、夫のそばで眠りにつくことになる。わたしは、確信をもって次のように言うことができる。彼の抱擁〔彼のこの言葉はセックスを意味している〕は、純粋に本能的なもの以外にはありえず、やむにやまれない欲求からしか起こらない……。

 パルム医師がこれを書いたのは、農婦のところに幼児を里子に出している母親たちに、農婦たちがセックスの妄想にとらわれたりしていないと安心させるためであった。当時の人びとは、前戯や後戯によって引き起こされる性的興奮は、乳母の乳に悪影響をおよぼすと考えられていたが、農民の間ではそのような心配はいらないとこの良き医師が反論したのである」79頁

「もし、ヘルムート・ミューラーの使った資料が信用に足るものであれば、ドイツの小ブルジョワにおいても、夫婦間のセックスは上の事例と同様のおざなりのものであった。彼は、『男性の性愛的に相手を満足させる能力のなさ』について書いており、また仕立て屋のヘンドラーについて次のような話を語っている。彼は『無理やり押しつけられた妻である年上の女に好感も情愛も』抱いていなかった。にもかかわらず、彼女との間に14年間で10人の子どもをもうけた。かれらの性関係のありようが想像されよう」79頁

「18世紀末になると、若者たちは結婚相手を選ぶとき、財産や親の意向といった外的な動機よりも、内的な感情を重んじるようになった。かれらは、親がよいと思う相手ではなく、自分の好みの相手を選ぶようになったのである。さらに1950年代から60年代になると、年齢にかかわりなく——といってもとくに若者であるが——人びとは、ロマンティック・ラヴから感情的おおいを取りさって、性的本能をあからさまにするようになる。そして、人びとは人間関係においてエロティシズムこそが貴重であると考え、かつてのように時間をかけて感情的なつながりをえようとせず、すぐに性的関係をもつようになったのである。こうした心性の歴史的変化は、一般の人びとの間に広がり、社会的秩序に大きな影響を与えたのであり、それは革命的と表現してもよいほどであった。わたしが…『2つの性革命』と名づけたのはそれゆえである」83頁

「18世紀末には、婚前セックスにおける最初の革命があった。そして、1960年代には第2次性革命が起こり、その結果、婚前セックスは誰でもが経験するごく一般的な事柄となったのである」88頁

「18世紀末の婚外妊娠の急増こそ、説明されるべきもっとも重要な現象である。これはその前後(少なくとも1960年代以前については)のどのような婚前セックスにおける変化にもまして、多くの人びとの生活を変えたのである。結論を先取りしていえば、それはより広範な社会変化と完全に一致している。すなわち、かつて何世紀間もほとんど変化しないで続いてきた伝統社会は、『近代社会』と呼ばれる社会によって破壊され、とって代わられた。愛すべきわれわれの社会は、とりわけ愛情生活にまつわる事柄に関して、失われた世界とはまったく異なっているようにわたしには思われる。結婚前の男女の態度や行動におけるこの未曾有の変化は、伝統社会から近代社会への移行の一環をなしていると考えている」89頁

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「〈現代の男女関係〉
 性行動パターンと感情パターンの間には密接な関係があるというのが本書の主眼である。19世紀末にみられた婚前の行動の変化は、感情を大切にしようとする志向とともに生じてきた。同じく、20世紀にも別の大きな変化が起きている。これは…1960年代の第2次性革命として描いたものである。第1次性革命の主要なテーマは、相手選びの際に愛情が優先されるようになったことである。20世紀になると、ほとんどの地域でロマンティック・ラヴは、〈打算的〉な考えを打ち負かした…第2次性革命のもつ2つのテーマは、自分たちをとりまく社会からの圧力——それが家族によるものであれ、共同体や仲間集団によるものであれ——をカップルがはっきりと拒否すること、およびセックスと『一生不変』の2人の結びつきとを別のものと考えるようになったことである」168-9頁

「<周囲の共同体と交際中の男女の関係> 伝統社会では、さまざまな社会的なネットワークやさまざまな仲間集団がカップルづくりやその行動を導いていた。そこには不釣り合いな結婚もなかったし、『軽率なこと』して秩序だった財産の移譲や、共同体に対する思い責任を放棄するような危険もなかった。
 18世紀後半の最初の性革命によって、男女関係は共同体全体の統制からはなれ、若者の仲間の手にわたった。無差別に相手を選ぶにはまだ障壁があった——それは、感情のほとばしりによって動きはじめたエロスが全面的に爆発するのをふせぐ壁であった。しかしその障壁は、自分自身の発見と親密さを全体としてよしとする下位文化のなかにおかれたものであった。それゆえに、セックスが頻繁にもたれるようになるにつれて、若者組織が、村の組織のような強制力を欠いていたために、間違いが起こり、誘惑者が逃げだして非嫡出子が生まれることにもなった。しかし、そのような間違いがあったとはいえ、セックスをする若者たちは仲間集団の規範にしたがおうとしていたのである」174-5頁→

(承前)「1960年代の第2次性革命は、若者の相手選びやデートにたいするこの仲間集団の弱い管理をとりはらった。自由への渇望は、カップルと周囲の社会組織とをつなぎとめていたケーブルを断ちきったのである。そして今や、自己実現——性的満足を通じての——が男女関係の支配的な要素となったのである」175頁

「母親が幼児の養育に心を砕くようになったのは、近代になってからのことである。伝統社会では、母親は、2歳以下の幼児の成長や幸福には無関心であった。しかし、近代社会では、第1に母親は幼児によかれと考える。…
 …『家族愛』——プライヴァシーで守られた家族の内部にはりめぐらされた親密な感情」176頁

「とくにフランスでは、既婚女性はたいてい子どもを田舎の乳母に預けていた。ビュフォンはパリ地方における死亡率の資料にもとづき、1777年には子どもの6分の1が里子にだされていたと推定した」185頁

「1800年以降になると、郊外に子どもを里子にだすという習慣は急速になくなった。パリ市立乳母斡旋局は、ナポレオン時代には、年に5000-6000人の里子を斡旋していたが、1830年代になるとその数は1000人に減った。…
 通常は、ジャン・ジャック・ルソーの『エミール』が出版された1762年をもって母乳保育の勝利の画期としている。しかしながら…それが出版されるずっと前から母乳保育の考えは流布しており、1760年代には、中流階級の間で母乳保育への切り替えがかなり進んでいた」191頁

「〈母性の発達〉
 18世紀末には、中流階級の間で母親の子どもに対する態度が質的に変化した…
 …中流階級の間で母性愛が生まれてくるのは1860年以前である…たとえばブルジョワジーの家族は1815年以降に出版されはじめた子どものしつけや健康についての本をわれがちに受け入れた」200頁

「<母性愛の欠如こそが高い死亡率の原因であった>…18世紀後半になると、新生児を汚物だらけにしておいたり、生後2ヵ月にもならないうちに離乳食を与えたりするのは危険だということを、両親はおぼろげながら理解しはじめていたにちがいない」213頁

「核家族というのは、世帯構成における特定の構造とか型とかを示すものではなく、むしろ1つの心の状態をあらわすものである。…西ヨーロッパ社会において核家族——父母と子からなる——と他の家族の型とを事実上区別するのは、核家族が自分たちだけの単位として家族を考え、それを周囲の共同体と切りはなす固有の団結意識をもっていることである。核家族の構成員は、外部のいかなる人間との間にももちえないほど多くのものを、家族の間で共有していると感じている——つまり、外部からの侵入に対して、プライヴァシーと周囲からの遊離によって守らなければならない特別の心の領域というものが、家族の間にはあると感じているのである」214頁

「近代家族が結晶していく核ともいうべきものが何であったか…核となるのはロマンティック・ラヴではない。…ロマンティック・ラヴではなく、母子関係こそが、近代家族形成の核となったのである。まず、子どもの幸福についての〈意識〉が中流階級の人びとにめばえ、それに付随して家族愛が生まれたのである。母親と乳飲み子の間につくり上げられた情緒の輪が次第にその範囲を広げ、年長の子どもや夫をもつつみこむ。かけがえのない幼な子の命を守るためには、そのかよわい生命と同様にデリケートな環境が必要であるという意識が生まれた。こうして、ロマンティック・ラヴ、母性愛につづく感情革命の最後のものとして、家庭愛があらわれ、家々の暖炉に心地よい火を燃やし、ついにはこの炎で周囲の共同体を焼きつくしてしまうのである」215頁

「伝統社会の共同体が個々の家族を共同体の規則に服従させることができたのは、シャリヴァリと呼ばれる懲罰方法を通じてであった。…シャリヴァリは、本質的には、逸脱した行動をした個人を共同体員の面前ではずかしめるための騒々しい公的示唆行為であった。…
 第1にシャリヴァリの攻撃の的となったのは、多くは性的な違反行為を犯した者であった。…
 妻を寝とられた夫もまた、とくに謝肉祭の時、はずかしめの的に選ばれた。妻の不貞を甘受することによって、その夫は家父長の権威全体に脅威を与えたというのがその理由である。…
 ときには未婚の母も性的逸脱者としてシャリヴァリの攻撃対象になったが、時代とともにその数が多くなりすぎ、この慣習は放棄されざるをえなかった。…
 これに対して、共同体は男性の不実な行動については黙認した。そのため他の既婚女性とつうじて妻をあざむいた夫は、なんのとがめも受けずにすんだ。共同体がおそれたのは、不道徳な性関係が現実にあったかどうかではなく、むしろそのような行為が共同体の社会秩序におよぼす影響であった。…シャリヴァリの攻撃対象にこのような選択がみられたことは、これら伝統社会の人びとが慎み深かったのではなく、ただ用心深かったにすぎないことをあらためて示すものである」229-30頁

「シャリヴァリの第2の攻撃対象となったのは、不釣り合いな結婚である。たとえば年齢の不釣り合いがはなはだしい男女の結婚に対してシャリヴァリが実行されることがよくあった。また、自分と同じ社会集団に属している求婚者の申しこみを蹴って、はるかに富裕な男と結婚する娘も攻撃を受けた。これよりさらに厳しい懲罰をくわえられるのが、寡婦(ないし寡夫)と未婚者の結婚であった」230頁

「ここで興味深いのは、わたしが知るかぎりイギリスの場合と違って、フランスやその他の国々においては、妻に対する虐待が共同体の強い関心をひくことは明らかになかったという点である。…イギリスにおいては、家族関係の近代化がかなり早い時期にすでにはじまっていたことが、ここでも認めることができるであろう。夫婦関係の平等化が進みだしていたため、共同体は、妻を罰する権利といった古い家父長権のなこりを容認するわけにはいかなくなり、妻をなぐる夫にも[シャリヴァリで]懲罰をくわえるようになったと考えられるのである。フランスにおいて夫婦の間の関係が対等になるのはかなりあとの時期のことであり、そのときには、すでにシャリヴァリの慣習は消滅していた」235-6頁

「シャリヴァリは、どの地方においても、共同体が個々の家族内部で秩序を保たせるための手段であり、家族のプライヴァシーや家族どうしの親密な結びつきを強力に妨げるものだった。シャリヴァリによって共同体は個人の行動を常に監視することができ、個人を逸脱行為から引き戻すことができた。あるいはまた——イギリスでしばしばみられたように——はみだし者を共同体から完全に排除した。共同体は家族の問題に介入する権利をもつという、この伝統的な了解が失われるとき——すなわち、核家族が誕生したとき——シャリヴァリはその存在理由を失うことになる」237頁

「〈家族愛の登場〉
 一般に現代の家族生活は『友愛』結婚——夫と妻の関係は支配と従属関係ではなく友人関係にあり、仕事と愛情を互いにわかちあう結婚に——[に]よって特徴づけられていると考えられている。おそらくこれは正しいであろう。しかし、近代家族の情緒的絆は、単に夫と妻だけを結びつけているのではない。それはまた子どもたちをも家族という感情の単位につなぎとめている。友愛という概念では、夫婦と子どもとの関係が必ずしも十分にあらわせない。また、『友愛』という言葉には、ある種の強いロマンティックな愛着が夫婦を永続的に結びつけるといった誤ったふくみが感じられる。いずれにしても近代家族をあらわすのに、友愛という概念では不適当である。それゆえ本書では、伝統家族から近代家族を区別するために『家族愛』という表現を用いた」238頁

「家族愛、すなわち、家族は外部からの侵入に対して、プライヴァシーと自立によって守られるべき貴重な情緒単位であるという意識は、近代における感情革命の第3の波を構成している。第1の波、ロマンティック・ラヴは、性関係に対する共同体の監視からカップルを解き放ち、愛情の世界へとかれらをみちびいた。第2の波である母性愛は、近代家族にくつろぎを与える安息所を築きあげ、共同体の生活との関わりから多くの女性を解放した。そして最後に家族愛が、家族を周囲の伝統社会との相互関係から切り離した。家族の構成員は、かつてさまざまな年齢集団や同性の仲間集団とわかちあってきた団結意識よりさらに強い一体感を家族の間でいだくようになった」238頁

「家族と共同体との多くの絆を支えてきた小都市や村の祭りが消滅しはじめるのは、ようやく1860年代から70年代になってからのことである。聖ヨハネの日のボン・ファイアやカーニヴァルの仮装行列は、その頃につぎつぎと姿を消していったのである。
 …ブルジョワ家族の生活様式がとり入れられることによって、富裕な農民が共同体と関わり合う機会は少なくなった。さらに、ブルジョワ的接待方法が下流階級の人びとをつきあいの場から追いはらうことになったのである。農民の世界での奇蹟がかくして起こる。すなわち、ワインと白いテーブルクロスが、伝統社会から近代社会への転化をもたらしたのである」241-2頁

「イギリスにおいては、親族がかつての友人および共同体の位置を占めるようになり、また、国家の社会福祉政策がかつて親族がおこなった伝統的な援助に取ってかわったため、核家族と知人や隣人とをむすぶ絆はかなり弱くなった」251頁

「(1) アメリカの家族はもともと『近代家族として誕生した』といってよいだろう。なぜなら、アメリカ大陸への植民者は、上陸と同時に、それぞれがプライヴァシーと家族水入らずの生活を原則として生活をスタートさせたと考えられるからである。…
 (2) アメリカの家族には、過去の世代との絆を断ち切ろうとする傾向があると思われる。…時間的な観点がないために、とくに若者たちは、自分が世代をこえてつながるリネージの1つの鎖の目であることを自覚することが困難になっている。…
 (3) アメリカの家族は、過去の数世紀にみられたあらゆる形態の共同生活からしだいに身を遠ざける傾向にあったと考えられる。今日のアメリカの家族が隣人とまったく関係をもたないことは調査によって示されている」254-5頁

「質的な面でも、親族間のつきあいは、共同体におけるつきあいにかわることはできない。親族の存在が、世代を越えてのびるリネージの一部であるという意識を個人にうえつけ、あるいは、親戚がなによりも困難な事態が起こったときに、身近にあって援助の手を差しのべるものであれば、それは、団結の儀式と物的な相互依存の意識とに支えられたかつての小共同体と機能的には等しいものといえるのかもしれない。しかしながら、今日人びとが親族に会うのはそんな理由からではない。親族はむしろ友人のようなものと考えられ、かれらと共に時間をすごすのは、パーソナリティを表現し、またそれを満足させるような理由——これが核家族誕生の起因であった——からである。今日の親族は、夫婦家族の自己中心的な情緒構造を補強し、拡大するものであって、それに敵対したり、それに破壊的脅威を与えるものではない。それゆえに、親族が、農村社会の灰の中から不死鳥のようによみがえったにしても、現代社会の核家族が物理的にも精神的にも、隔離された存在であることに変わりはないのである」257頁

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