Todd, Emmanuel. (2011) L’origine des systèmes familiaux, Tome1. L’Eurasie, Gallimard.
=2016 片桐友紀子・中野茂・東松秀雄・北垣潔訳『家族システムの起源 Ⅰ ユーラシア』㊤㊦ 藤原書店

「私の研究者としての生涯の中で最も誇りとするところとは、実は、それが必要となったときに、方法論的な大転換を敢行することを得たということなのである。私は固定された家族システムとイデオロギー的・経済的上部構造の間の関連を確立したわけだが、研究者としての生涯の中途において、私はこうした構造主義的モデルから、家族類型そのものの出現・多様化・固定化のありようを理解するために、これとは全く異なる伝播論的モデルへと、転換したのである。私がこうした方法論的跳躍(ジャンプ)を行なうことができたのは、フランス有数の言語学者で、アジア諸言語の系統についての専門家である、友人のローラン・サガールのおかげである。彼のおかげで私は、自分の研究生活の第2部において、『社会構造』の諸レベルの間の構造的符合の諸問題を無視する、空間内での諸形態の伝播のモデルを提唱する、ということになったわけである」1頁

「本書は、全く通常と異なる、ほとんど逆の、とさえ言えそうな、人類の歴史の姿を提示するものである。ユーラシアの周縁部に位置する、現在最も先進的である国々、とりわけ西欧圏が、家族構造としては最も古代的(アルカイック)なものを持っているということを、示しているからである。発展の最終局面におけるヨーロッパ人の成功の一部は、そうした古代的な家族構造はかえって変化や進歩を促進し助長する体のものであり、彼らヨーロッパ人はそうした家族構造を保持してきた、ということに由来する。このような逆説は、日本と中国の関係の中にも見出される。日本は経済的に中国に比べてひじょうに進んでいるが、家族構造としてはより古代的なものを持っているのである。…歴史の逆転した姿(ヴィジョン)」3頁

「家族というのは、きわめて強力な説明変数であるが、社会構造の不動の要素でない以上、すべてであるわけではない。家族は、その変動の速度が、社会的、教育的、経済的、ないし政治的生活の他の成分よりもゆっくりしているとしても、やはり変動はする。家族システムの多様性の仮説というものは、各家族システムの担い手たる民族が、まるで家族構造によって本質化されたかのように他の民族と切り離されているという具合に、人類が複数の部分に分割されているという表象を与えるものではない、というのが、〔この仮説を提示するに当たっての〕私の趣意であった。例えば私の研究は、隣接する専門分野で行なわれた他の研究に続いて、いくつかの家族システムの破壊——流入移民の家族システムのとりわけ受入れ社会による破壊——と個人の全面的な同化という、独特の不安を伴わずにはいない過程を、解明した(『移民の運命』)。とりわけ、家族類型とは、歴史における実に多くの事象を説明するものであるが、それ自体、1つの歴史を持ち、共通の起源を有するのである」18-9頁

「人類全体に共通の起源的家族形態は、突き止め、かつ定義することができ、かつまた都市化と工業化による原住地からの離脱が起こる直前に観察し得た多様な人類学的類型〔家族類型〕の出現に至る分化の過程の一般的特徴は復元することができる」20頁

「本書『家族システムの起源』は、方法論の面では革命的な著作であると称するものではない。実のところ方法論的には、1920年から1945年のアメリカ人類学を、そしてとくにロバート・ローウィを新たな装いで踏襲しているにすぎない。しかしその中心的結果は、西欧世界と言われるものの虚栄に対する根底的な批判に行き着く。西欧圏は、マックス・ウェーバー以来、己の歴史的成功の鍵を、己の文化のあれこれの特殊性に探し求める習慣をいささか安易に身に付けて来たのである。私が到達した確信の1つは、旧世界の周縁部に位置するヨーロッパは、家族システムの面では、古い形態の保管庫であり、人類学的組織形態に関しては、われわれは起源的な形態にかなり近いところに留まり続けて来た、ということである。われわれ西欧人は、農業も都市も商業も牧畜も文字も算術も発明したわけではないのに、短い期間とはいえ、発展競争のトップランナーであったのは、技術的・経済的発展にとって麻痺的効果をもたらす家族システムの変遷というものを経験しないで済んだからなのである」20頁

「家族構造の専門家としての生涯の終わりに当たって、世界のすべての民族を単一の歴史の中に統合し、今から30年ほど前に自分自身が一時的に人間の集団と集団の間に打ち立てた境界線を廃棄するようなモデルを作り上げることができたということは、私にとっては混じりけのない純粋な喜びである。単一の歴史の根源は、ピーター・ラスレットがかつてちらりと垣間見た、核家族の謎に他ならない」20頁

フォロー

「…19世紀もしくは20世紀初頭の主要な進化主義的モデルは、家族の歴史に言及するときには、きわめて特徴的であって、進歩の段階に応じてそれぞれ対応する親族システムなり家族類型がある、と考えた。
 第二次世界大戦後になると、人類学者たちは、ナチスの人種主義の打撃から立ち直れず、次いで民主主義諸国の植民地主義にうんざりしてしまい、大変な努力をして、進化主義を厄介払いしようとすることになる。まことに唐突に、かつまことに公式に、地球上の諸民族を階層序列化するのを止めたのである」28頁→

(承前)「彼らの善意は真摯なものであったが、それでも彼ら人類学者たちは、諸民族を同一水準に置くことに本当に成功したとは言えなかった。なぜなら、人類学は、『未開人』、つまりは非ヨーロッパ人の研究を専門的に行なう学問分野(ディシプリン)であると自らを定義することによって、発展の観念に乗り越えがたい公理としてのステータスを一挙に与えてしまうからである。人類学による一般化は、そのモデルにヨーロッパ人を組み込むことが決してできなかった。ヨーロッパ人は、明らかにその経済的成功によって、人類の総体を包含する法則の中に自らを占めることを免れたのである。それこそが、フィールドで実現するモノグラフが方法論的にいかに厳密であろうとも、学としての人類学が挫折したと言わざるを得ない根本的理由であると思う」28頁→

(承前)「しかしもしヨーロッパ人を先験的に『近代的』と見なすことを止め、どんな人間集団とも同様なものとして扱うとするなら、その場合には、<彼らの>核家族が、地上の最も『未開な』民族にも見られるということを、確認せざるを得なくなる。なぜ核家族は、〔近代イングランドのような〕複雑な社会システムと未開の共同体とに同時に対応し得るのかということを理解しようとすると、われわれは構造主義の公理から脱却しなければならなくなる。もっとも、経験的現実への服従という原則からすれば、われわれには選択の余地はないのだ。もし同じ要素が異なる構造、対立しさえする構造に組み込まれることがあるとするなら、社会というものはあらゆる点で首尾一貫しているわけではないということになる。社会生活の要素のなかには、他の要素からは独立して存在し得るものがあるのであり、そうした要素の変動を支配する法則は、特殊なものであるかも知れないのである」28-9頁

「家族構造とイデオロギー・システムの間の関係についての私の当初の仮説は、それ自体、こうした『構造的』思考様式の極端な形態に他ならなかった。それは人類学的体系と政治的類型体系の間に照応関係を打ち立てるものであったからである。しかしながら、社会を『構造』として表象する大多数の表象とは逆に、『第三惑星』のモデルは、発達の水準には無関心である。そこにおいては、イデオロギーも家族類型も、遅れたとか、進んだとか、昔のとか、近代的なとかと見なされない。私のモデルの独創性は、家族は下部構造でありイデオロギーは上部構造であるという主張から出て来るのではいささかもなく、それが経験的検証に合格したモデルであるというところから出て来るのである。…しかしそれは、部分的な合格にすぎなかった。私は、家族類型と生態的・経済的要因の間の合致の不在を説明することができるのは、偶然だけであると主張していた…。説明の不在は、それ自体、私が社会の構造的表象とは別のところに、論理的な説明形式を構想することができなかったということの帰結にすぎない」29頁

「周縁地域の保守性原則(PCZP)
…1912年には言語学において発見されていたが、これによって、ある一定の時点において把握された現象の地理的分布の歴史を演繹することが可能になる。地図上に表された2つの相互排他的な特徴AとBがあるとき、Bが一続きの中心地域を占め、Aがいくつもの孤立した周縁的地域を占めるのなら、特徴Bは何らかの革新が周縁部に広がったものである蓋然性が高い。特徴Aが占める地域は、地図空間全体においてかつて支配的であった特徴の残留的分布を表している。説明の信憑性ないし『蓋然性』は、周縁的なAの地域の数が多ければそれだけ増大する」30頁

「私の蒙を啓いてくれたのは、実は長年の友、ローラン・サガールであると、白状しなければならない。言語学者であるサガールは、『第三惑星』の地図…を眺めると、要点としては以下のようなことを言った。『他の部分は実に興味深い。しかし『偶然』…の部分で言っていることは、いい加減だ。<周縁地域の保守性原則>を承知している研究者なら、君の言う共同体型というやつ、ここに赤だかベージュで塗られているのは、一続きの中央部的塊をなしており、濃い緑の直系型や青や薄緑の核家族型は、周縁部に分布しているということを、すぐに見て取るはずだ。これからすると、何らかの時期に、ユーラシアのどこかの中心点で共同体型への転換という革新が起こり、それが周縁部へと広がって行ったが、まだ空間全体をすっかり覆い尽くしてはいない、ということであるのは明白だ』と。…彼の立論は論理的に反論の余地のないものだった。…周縁地域の保守性原則は、単に論理的道具であるだけではない。それはもう1つの研究方法、歴史学と社会学のもう1つの考察次元、すなわち<伝播>というものへとわれわれを向かわせるのである。人間科学の近年の歴史の中で、<構造>というものの不幸な競争相手となっていたあの<伝播>へと」31頁→

(承前)「風習の、組織形態の伝播は、社会学的分析の抑圧された裏側に他ならなかった。フランスについては、人類学において構造主義的思考様式が勝利したことが、かなり大幅に、家族形態と親族システムの多様性を説明しようとする企ての挫折の原因となっているのである」31頁

「周縁地域の保守性の原則は、人類学に無縁のものではない。それはおそらく、人類学という学問分野にとって、言語学と同じように古くから縁のあるものである。例えば、すでに1923年にはアメリカ人ウィッスラーによって、この原則は完璧な形で開陳されている。アメリカ大陸全域にわたる、土器製造、機織りの技術、儀礼の検討を含む、『間歇的分布』の詳細な検討を行なったのち、彼はこう述べている。
 『分布の不連続性が周縁的形態をとるとしたら、(…)中央部の空虚は、諸特徴は中央部の諸文化の懐において最も変遷が進むということよって[ママ]もたらされたということになる』。
 これ以上に明快な説明はあり得ないだろう。もしかしたら私は、周縁地域の保守性原則の方法論についてのこの説明を、1920年代のアメリカの人類学から始めるべきだったのかもしれない。それは、伝播の過程をきわめて重要なものと見なしていた。
 私が言語学から始めることにしたのは、周縁地域の保守性原則が第二次世界大戦直後に人類学から消えてしまったことの異様さを感じてもらうためなのである。人類学からは、伝播の過程の分析を可能にする方法論全体が文字通り粛正[ママ]されていたのであり、それこそが、私がこの地図分析の技法を友人の言語学者から伝授して貰わねばならなかった理由」33-4→

(承前)「この退行が起こった時期は、ある程度正確に決めることができる。周縁地域の保守性原則は、1940年代末の構造主義大変革の直前には、まだ生きていた。それはレヴィ=ストロースにとっては完全に馴染みのものであり、彼はおそらくそれを、フランスの言語学者よりはむしろアメリカの人類学から受け継いだのである。この原則は、1947年に完成した『親族の基本構造』の中にも、決定的ではないまでも重要な原則として、何度も登場している。…
 『…中国を取り囲む一帯には、同じ婚姻規則と同じ親族システムが見いだされる。これは古代の生き残りを示唆する周縁的な位置を占めている。…』
 フランス構造主義だけの責任とするのは、不当であろう。アメリカの人類学も、自主的なやり方で周縁地域の保守性原則と伝播のメカニズムの分析を葬っているのだ。1949年に刊行された『社会構造』の中で、ジョージ・マードックは、人類学的現象の空間的知覚を禁止している。
 …周縁地域の保守性原則は、きわめて強力な分析道具である」34-5頁

「本書の中では、革新と反動からなる一対の組み合せが本質的に重要となる。父系変動が起こったと考えることによって、たしかに広大な一続きの地域を中央地域として定義するという結論がもたらされることとなった。しかしまた、父系変動はこの地域の周縁部に、多数の反動的な母系形態を産み出しもしたのである。これらの母系形態は人類学者たちが伝統的に抱き続けて来た驚嘆の対象であり、彼らはそれらに内在する固有の論理を発見しようとして、たくさんのエネルギーを浪費した。〔しかしそれらは内在する論理ではなく、反動という外在的な論理にしたがっているのである。〕反動はこの場合には、逆方向への転換の企てという形をとっている。
 革新の拒絶は、伝統に忠実だと称しながら、その実、全く同様に革新効果を揮う別の形態が出現することに繋がる。…己が正統に則っていると考える住民集団は、こうして母系原則を作り出すことになる。実際は、伝統的システムは<未分化状態>ないし<双方性>…だったのであり、子供の身分の定義に関しては父親も母親も等しく重要であったのだということを、忘れてしまうのである。…ガブリエル・ド・タルドは、<対抗模倣>の現象、ジョルジュ・ドゥヴルー…は<異文化の文理的受容>の現象という言い方を喚起している」36頁

「人間科学の歴史——動植物の種の研究も含むきわめて広い意味での——を繙くなら、構造の論理と伝播の論理との対立は、すでに19世紀半ばには存在していたことが明らかになる。方法論の観点からすれば、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』は、構造的合同の原則に対する激烈な批判として読むことができる。生物の種の地理的分布は、単なる環境の、特に気候風土の作用によって説明することはできないということに気づいたダーウィンが、その理論によって実現したものは、革新と伝播という概念によって行なわれる分析の、おそらく最も有効で最も革命的な適用として今後も残り続けるだろう。…ダーウィンの検討手続きを見ると、地理的分布の解釈にある種ためらいのようなものが感じられる。時として、現実性の少ない伝播の軌道、特に山岳経由の軌道を仮定する、などということもやっているのだ。しかし『種の起源』の終わりに近付くと、周縁地域の保守性原則の先進的な定式化に到達するのである。
 『…昔行なわれた移動がいくつもの異なる状況において実行されたこと、輸送手段に事故が起こったこと、中間地域において種の絶滅が起こったこと…』」37頁

「周縁地域の保守性原則はしばしば、空間の中で時間が成し遂げたものを読み取ること、共時態を通時態に変換することを可能にしてくれるのであり、ここにおいては、核家族が同時的にイングランド人、アグタ人、ヤーガン人、ショショニ人の許に存在することをわれわれが理解するのを可能にしてくれるのである」38頁

「〈周縁的・古代的(アルカイック)形態としての核家族〉
…これら3つの非農耕民族[アグタ人、ショショニ人、ヤーガン人]は、理の当然として周縁的なものでしかあり得ないということを、認めなければならない。全く単純に、農業というものはそれ自体、狩猟と採集を残留的・周縁的な地域にしか存続させないような伝播の過程をたどって普及したのだ、という理由からである。もしこの3民族のケースだけを検討すればよいのであれば、われわれは、構造型の推論の基盤に立って、核家族は狩猟採集民の生活の必然的な相関素であると断定したくなったかも知れない。こうした結果は、1966年にシカゴで開催された『人間、この狩猟する存在』(Man the Hunter)と題するシンポジウムの結論と両立不可能なものではないだろう。このシンポジウムはいくつか重要な成果をもたらしたが、その1つは、ラドクリフ=ブラウンがオーストラリアのデータを誤読して確信してしまった、原初の家族形態は父方居住の移動集団であるとのファンタスムを、人類学から厄介払いしたことである。この専門家同士の対決は、狩猟採集民においては核家族からなる流動的な集団が優勢であることを示唆することになった」38-9頁

「高度に識字化され、きわめて効率的な農業を営む17世紀のイングランド人のケースがあるために、われわれは核家族を構造という概念と切り離して考えざるをえなくなったのである。彼らの存在のせいで、発展水準と家族類型の間のいかなる相関関係も廃棄されてしまうのだ。…
…父系革新が非核家族的家族形態の出現にとって不可欠なものである…[農業と同様に]父系革新もまた、紀元前3000年紀の半ばに中東においてその最初の(しかし唯一のではない)中心地を見出すことになる。ところがイングランドには、農業革新、次いで文字は、比較的遅い時期ではあっても到達はしたけれども、父系的概念という第3の革新と、それに結び付いた複合的な家族形態は、現実に到達することはなかった。それこそが、イングランドが1700年ころに、高度な技術水準と、未開人のものに近い家族形態との組み合せを出現させた理由である」39-40頁

「〈忘れられた快挙 両大戦間時代のアメリカ人類学〉
 初版が1919年に発行された、ロバート・ローウィの『原始社会論』は、おそらく第三千年紀初頭の新参者にとっても相変わらず最良の人類学入門書であるだろうが、かつて1934年ころに、クロード・レヴィ=ストロースにとっても最良の人類学入門だった。同書において、夫婦とその子供のみからなる核家族の普遍的にして、言わば原初的な性格は、すでに主張されていることが見いだされる。同書ではこの家族は、<双方家族>の名で示されている」40頁

「家族の核家族性、女性のステータスが高いこと、絆の柔軟性、個人と集団の移動性。ここにおいて起源的として提示される人類学的類型〔家族類型〕は、大して異国的(エキゾチック)なものとは見えない。最も深い過去の奥底を探ったらわれわれ西洋の現在に再会する、というのが、本書の中心的逆説なのである。逆に、かつてはヨーロッパの人類学から古代的(アルカイック)なものと見なされていた形態〔不可分の大家族、直系家族〕の方が、歴史の中で構築されたものとして立ち現れることになるだろうし、いかなる場合にも、原初性の残滓として立ち現れることはないだろう。一夫多妻制や一妻多夫制も、起源において支配的であった一夫一婦制からずっと後の発明物として現れることになろう」45頁

「親族集団が国家によって取って替わられたという、古典的な、しかし今でも完全に有効性を持つ社会・歴史的テーマ…これはしばしば、個人というものの出現と解釈された。しかしそれは誤りである。過去の稠密な大家族の神話を一たび葬り去った以上、われわれは、未開人より以上に、未開人より優れたあり方で個人である、などと主張することはできなくなってしまったのだ」46頁

「核家族はまた、17世紀イングランドの人類学的構造の全体をなしていたわけではない。それが最も核家族的であったところ、例えば中部諸州において、それは村落共同体に組み込まれており、とりわけ大規模農業経営によって支えられていた。言わば、青春期からの親と子供の分離のお膳立てをしたのは、この大規模経営なのである。人類学的であると同時に経済的なこのシステムなしでは、イングランドの絶対核家族は全く存在しなかった」46頁

「『文明』の4つの基本要素(農耕、都市、冶金、文字)は、それぞれそれ自体に本質的に内在する拡大の潜在力を秘めていることは認めなければならない。これらの要素が、地球の大部分に広がったのは、ガブリエル・ド・タルドが『模倣の法則』の中で用いた意味で、つまり合理的な意味で、『理の当然』なのである。歴史の現実においては、農耕によって人口密度が増大し、都市と文字によって組織立てられ、技術的・軍事的に強力になった民族は、周辺の人間集団に影響力を揮い、取って替わることができた。その上、淘汰が起こらなかったところでは、これらの民族は、自分たちの成功の元となったもの(農耕、都市、冶金、ないし文字)ばかりでなく、どれもがより多くの効率性に結び付くと先験的に想定してはならないような他の革新も、被支配者たちに伝えることがあり得たのである。支配者がもたらした社会形態であるという威信だけで、それらの要素が受入れられてしまったことは説明できる。家族に関わる変動のケースは、しばしばそうしたものだった。その中には、社会に活力を与えるにほど遠く、逆に対抗的な歴史的シークエンスを始動させてしまったものもある」49頁→

(承前)「現実には、父系・共同体革新は、それが押し付けられたところで、最後には発展過程を毀損するに至った。なぜなら、その最終局面においては、女性のステータスの低下に至り、そのことは当該住民の教育潜在力を減少させたからである。それでもそれが出現したとき、この家族形態は、技術文化の領域で革新的な民族によってもたらされ、当時の近代性の象徴として、威信溢れるものでありえたのである。これこそ、ガブリエル・ド・タルドが論理外的模倣と呼んだものの領域である」49頁

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