von Bertalanffy, Ludwig. (1968) General System Theory: Foundations, Development, Applications, George Braziller.
=1973 長野敬・太田邦昌訳『一般システム理論——その基礎・発展・応用』みすず書房
https://fedibird.com/@9w9w9w9/109391985944591345 [参照]
「『システム哲学』…これは思考と世界観の改変であって、新しい科学的規範として(古典科学の分析的、機械論的、一方向因果関係的の規範に対して)『システム』を導入することから生じた結果である。展望をもった科学的理論はすべてそうだが、一般システム理論も『形而上学的』あるいは哲学的な側面をもっている。『システム』の概念はトーマス・クーンのいう新しい『パラダイム』、あるいは著者…の名づけた『新しい自然哲学』を構成するものであって、機械論的世界観のいう『自然の盲目的法則』とか阿呆が物語るシェクスピア劇のような世界過程に対するに『偉大なオーガニゼーションとしての世界』なる有機体論的展望をもってするものである」xv
「<システム認識論>の問題…これは、科学的な態度の点では共通しているとしても、論理実証主義や経験主義の認識論とはいちじるしく異なるものである。論理実証主義の認識論(および形而上学)は物理学主義と原子論と知識の『カメラ理論』によって決定されていた。これは現在の知識から見ると時代おくれのものだ。物理学主義および還元主義と対立して、生物科学や行動科学や社会科学の中で生じてくる問題と思考法はそれなりの同等な考察を必要としており、素粒子や在来の物理法則に単純に『還元』できるようには思われない。構成部分への分解と一方向的および直線的な因果性を基本的カテゴリーとする古典科学の分析的操作に対して、多数の変数から成るオーガナイズされた全体についての研究は、相互作用、超作用(transaction)、オーガニゼーション、目的論等々の新しいカテゴリーを要求しており、これはまた認識論と数学的モデルおよびその技法とについて多くの問題を生んでいる」xvi →
(承前)「さらにいえば、認知は『実在のもの』(その形而上学的な位置づけは何であれ)の反映ではないし、知識は単に『真理』や『実在』への近似ではない。それは知るものと知られるものの間の相互作用であり、これは生物的、心理的、文化的、言語的、等々の性質をもつ多数の要因に依存するものである。物理学者自身でさえ、観測者と独立に存在する粒子や波のごとき究極的な実体はないと語っている。このことから、『遠近法主義の』哲学が導かれるのであって、それによれば物理学自身とその連接諸分野の達成は十分に認めながらも、物理学だけが知識の専売特許ではない。還元主義と、実在は『何々にほかならない(nothing-but)』(物理学的粒子や遺伝子や反射や衝動やその他のものの塊り)と宣言するいろいろの理論とは反対に、私たちは科学を、生物的、文化的、言語的才能と足かせをもった人間が彼の『投げこまれた』世界、あるいはむしろ進化と歴史によってそこにうまく適応しているるその世界に対処していくために創りだした『いろいろな遠近画』の中の一つであると見るのである」xvi
「もし実在が、オーガナイズされた全体の階層構造物であるのならば、そこでの人間像は偶然の出来事で支配される物理学的粒子が究極的で唯一の『真なる』実在であるような世界におけるそれと異なったものになるだろう。むしろ、記号や価値や社会的なものや文化の世界こそきわめて『真なる』何ものかであるのだ。そしてこれが宇宙の階層秩序の中に埋め込まれているという事態は、C. P. スノーのいう『二つの文化』の対立、すなわち科学とヒューマニティ、技術と歴史、自然科学と社会科学、その他何にせよこうした図式に描くことのできる対立の間に橋をかけるのに好適な状況である。
私の理解しているようなものとして一般システムに[?]理論がこのように人間主義的な関心をもつことは、機械論に傾斜したシステム理論家と違いのあるところであって、後者はもっぱら数学やフィードバックや工学の言葉でシステムを語り、システム理論とは実は人間を機械化し無価値化しテクノクラートの社会へ向かわせるための最終段階ではないかという恐れを生ぜしめるものである」xvi-xvii
「著者は1920年代の初め、生物学の実際研究と理論の明らかなギャップにとまどいをおぼえはじめた。当時広くゆきわたっていたのはちょうど今述べた機械論的アプローチで、それは生命現象における本質的なものを無視するかもしくは積極的に否定するようにみえた。著者は生物学での有機体論の概念を唱えたのだが、これは全体として、あるいはシステムとして生物を考察することを強調し、生物科学の主目標はそのいろいろなレベルでオーガニゼーションの諸原理を発見することにあるとするものであった。著者の最初の言明は1925-26年にさかのぼるが、他方1925年にホワイトヘッドの『有機体機構』の哲学が現れている。キャノンのホメオスタシスに関する仕事がでたのは1929年と1932年である。有機体論の概念はクロード・ベルナールをすぐれた先駆者とするが、彼の仕事はフランス以外ではほとんど知られないでいた。今でもまだ充分には評価されていない」9頁
「近年アメリカの指導的な生物学者たちによって『有機体論生物学』が再び強調されるようになったのに(Dubos, 1964, 1967; Dobzhansky, 1966; Commoner, 1961)、これらの人々は著者がずっと初期にやった仕事に触れることがなく、一方、ヨーロッパや社会主義国の文献の中では、著者の仕事が正当に認められている…
哲学方面で著者の受けた教育は後にウィーン学団として知られるようになったモリッツ・シュリックのグループの新実証主義の伝統を汲むものであった。けれども著者はドイツ神秘主義やシュペングラーの歴史相対論や芸術史に興味があり、またこれと同様な非正統派的な態度から、良き実証主義者になるわけにはいかなかった。著者にとっては1920年代の『経験哲学協会』のベルリン・グループとの結びつきのほうが強かったのである。そこで特に目立つ存在は哲学者兼物理学者のハンス・ライエンバッハ、心理学者ヘルツベルグ、工学者パルセヴァル(飛行船の発明者)であった」10頁
ドブジャンスキーも?
「システム問題とは本質的には科学における分析的な手法の限界の問題である。これはこれまでしばしば、たとえば創発的進化とか『全体は部分の総和以上のものである』とか、なかば形而上学的な言葉でいい表わされてきたけれども、はっきりした操作的な意味をもつ問題だ。『分析的な手法』の意味することは、研究するべきものをまず部分に分解せよ、しかるのち部品を一緒に組合わせて構成、あるいは再構成できる、ということだ。この手法は物質的、概念的のどちらの意味でも理解されている。これが『古典的』科学の基本原理であって、この枠はいろいろちがう仕方で描いてみせることができる。たとえば単独にとりだせる因果連鎖へとものごとを分解すること、科学のさまざまな分野で『原子的』単位がさがし求められること、等々はその例である」16頁
「<サイバネティクス> これは制御システムの理論であって、システムと環境の間あるいはシステム内部での通信(情報の運搬)、また環境と関連してのシステムの働きの制御(フィードバック)に基礎をおいている。このモデルは広い応用範囲があるが『システム理論』全般と同一視すべきではなくて……生物学その他の基礎科学で、サイバネティック・モデルは制御機構の形式的構造を、たとえばブロック図と流れ図によって記述しようとする。このようにすると制御構造は、たとえその実際の機構が未知であり記述されておらず、システムが入力と出力のみで定義されているような『暗箱(black box)』であるときでも、認知することができる」19頁
「生態系や社会システムも、たとえば生態系が汚染によって乱されるとか社会が多くの未解決の問題をつきつけるなどのときにいや応なく経験するとおり、たしかに『実在』している。しかしこれらは五官あるいは直接観察の対象ではない。それらは概念的な構築物なのだ。同じことは日常世界の対象についてさえもいえる。それらは決して感覚のデータとか単純な知覚として単に『与えられる』のではなく、ゲシュタルト力学および学習過程から、実際に私たちが何を『見』るか何を感ずるかを大部分決めてしまう言語的、文化的要因にいたるまでの莫大な数の『心的』諸要因によって組上げられたものなのだ。すなわち観察から与えられる『実在の』対象およびシステムと、『概念上の』構築物およびシステムの区画線は、どんな常識的なやり方によっても引くことはできないものである」xv-xvi