亀田俊和著『征夷大将軍・護良親王』読了
図解も多いしあまり厚くはなのでさらっと読めた。筆者が足利びいきと公言している通り、護良親王には結構シビアな印象。でも最近までの論点などを知るのにはちょうどいいと思う。
結局、護良の失脚の理由は不明…って感じみたい。尊氏を暗殺しようとしていたとか、帝位簒奪を企てたとか?前者の場合、処分が重すぎる気がするのですが…。後者の場合は、後の南朝臣下の様子からするにあまりなさそうという感じだし…。
後醍醐にとっても邪魔だったから消したのであって、理由はこじつけだったりして…
後醍醐としては持明院統を潰すのが第一の目的だったようにも…。
尊氏に敵対した理由について、嫉妬と言ってしまえばそれもなくもないだろうけどどうなんだろう。足利を危険視する勢力というのは一定数いたんじゃないだろうかと思うけどなあ。嫉妬説の方が新しいのかなあ。

 

私は護良親王推しです
運命的なものを感じています(勘違い)

本を読んでも忘れちゃうので、そんなあなたにfedibird。備忘録に超便利。

『太平記』のせいで現在に至るまで多大な風評被害を受けた人物筆頭ですよね、文観って。
足利政権に近い人物による改変って、いわゆる直義の検閲の影響ということかな。

それにしても「大僧正賢俊伝」気になる…
真面目な内容なのかなあ。それとも荼枳尼天の妖術と聖パワーの対決的なやつなのか…w

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内田は「想像ではあるが」としつつも、賢俊と文観は国家的には敵対の立場にあったが、醍醐寺内部では取り立てて両者は対立しておらず、醍醐寺は賢俊と文観という両朝への代表を立てて、南北両朝の争いの趨勢がどうなっても良いように、巧妙に時流への対応をしていたのではないか、と推測している。

ja.wikipedia.org/wiki/賢俊

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協調説
伝統的通説に対し、仏教美術研究者の内田啓一は、賢俊と文観は実際にはそこまで大きな対立関係にはなかったのではないか、と主張した。

一つ目に、南朝側の資料であるが『瑜伽伝灯鈔』(正平20年/貞治4年(1365年))によれば、賢俊は文観から付法を受けている(師の一人を文観としている)ので[9]、文観から弟子の賢俊に座主が移るのは特段不自然なことではない[3]。

二つ目に、賢俊が文観に替わって醍醐寺座主になったのは延元元年/建武3年(1336年)6月で、尊氏が京都を占拠する8月の2か月前のことである[4]。つまり、文観から賢俊への交代は後醍醐天皇の治世下でなされており、確かに尊氏と賢俊は密接な関係にあったとはいえ、「尊氏の後援を受けた賢俊が文観を醍醐寺から追い出した」という認識は正確ではない[4]。

三つ目に、南北朝の内乱勃発後、南朝側の醍醐寺座主に補任されたとみられる文観は[10]、延元3年/暦応元年(1338年)ごろ、『弘法大師二十五箇条御遺告』という醍醐寺の重宝中の重宝(後世に偽書と判明)を吉野に持ち出したことがあり、北朝側の醍醐寺座主の賢俊は止めようとすればできたはずだが、特に両者で争った形跡はない。

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【賢俊と文観】43頁注17 

対立説
伝統的通説としては、北朝・室町幕府の高僧だった三宝院賢俊は、南朝の高僧だった文観房弘真とは深い対立関係にあり、文観から真言宗の要職を奪還した僧だったとされる[5]。たとえば、近世の『続伝統広録』では、文観は妖術に長け荼枳尼天を祀り女人と交わって多数の子を為した邪僧と描かれており[6同書「大僧正賢俊伝」ではその邪僧の文観を駆逐して正しい教えを取り戻した立派な僧が賢俊であると、勧善懲悪的な文脈で対決が物語られる。

また、現存する軍記物語『太平記』の12巻および13巻は建武政権批判が色濃く、護良親王や千種忠顕ら後醍醐天皇側の人物が誹謗を受けており、特に文観は「邪魔外道」の僧とされ、後世の文観像に重大な影響を与えた。『太平記』研究者の兵藤裕己は、今川了俊『難太平記』を引き、慧鎮房円観らが作成した『原太平記』(『太平記』の原型だが散逸)全30余巻に対し、玄恵ら足利政権に近い人物による改変が行われたのではないか、と推測している。さらに、兵藤は、上記の賢俊が文観派を積極的に排除したとする伝統的通説に則り、文観批判が展開される『太平記』の前半部(1巻から21巻まで)が完成したとみられる時期と、賢俊が権勢を振るった時期が重なることを指摘している。

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